一方通行な正しさと、一方通行な我々


僕ら人間はどうやら自分の信じたいものを信じる生き物らしい。
自分にとって都合の良いこと、自分にとって価値あることを信じる。

でも、自分の信じるそれが正しいというわけではない。
自分が信じることと、その正しさは無関係。
当たり前だけど。


じゃあ、それが正しくないからといって僕らがそれを信じてはいけないのかというと、またそういうわけでもなくて。

何を信じるかは個人の自由。
不都合なことは見なかったことにして、自分の信じたいものを信じて、それを自分の現実としていればいい。

それを提案するのも自由。
「これは素敵なことなのだよ。あんたもお一つどうですか」と提案するのは自由。

自由だけど、それを押し付けてはいけない。
正しいと言ってはいけない。
それが正しいのはあくまで自分の中でだけ。
自分の外では正しさを持たない。

もし、それを正しいと言いたいのであれば、人との共通のルールでその正しさを証明しなければいけない。

1+1=2で、2+5=7で...だから、3×8=24なんだよ。
みたいに。

共に理解できる言葉で、共通のルール、共通の前提を使って正しさを証明していく。


でも、そこでもう1つ。
仮に正しさを証明したところで、それを受け取った誰かさんが信じるとは限らない。
だって、何を信じるのかは個人の自由だから。


そう考えると、一番コスパが良いのは自分だけで完結すること。
自分が信じたいものを信じて、自分が観たいものだけを観る。

ずっとそうすればいい。
なのにそうしない。
求められてもないのに誰かに絡んでいっちゃうし、他人に絡まざるを得ない状況にもっていくこともある。

難儀だなぁ。
面倒な生き物だなぁ。

ぼんやりとそんなことを考えておりました。


おしまい。

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