失敗の機会


僕らは失敗から学ぶ。

やけどして痛い目にあったことがあれば、熱いものを触るとき「痛いからやめとこう」と避けるようになる。
カレーに入れても美味しくない材料は、次から入れないようにするだろう。


僕らは失敗を回避できる。

例えば誰かから忠告を受けたり、それこそ親がするようにあらゆる危険から避けようとする。
過保護であればあるほど、どんな小さな危うさからも遠ざけようとする。

でも、そうして回避したものからは、失敗という経験から得られるものを手に入れられない。

何でそうなったのか、その失敗によってどんな痛みがあって、どんな感覚になるのか。
自分がどうなるのか、自分以外の誰かはどうなるのか。
どうやってその損失を取り戻すのか。

そういった実際に体験してみないとわからないことは、失敗しなければ理解できない。
情報として「知る」ことは出来ても、「実感」して「理解」するには経験しなければいけない。

誰かがその機会を取り除いてしまうと、それから得られるものを手にすることが出来ない。


僕らは誰かの失敗を前もって取り除くことができる。

でも、僕らはそうすべきなのだろうか。

もちろん取り返しがつかないことは避けた方がいい。

じゃあ、そうでないものは?
取り返しのつく間に、取り返す術を身につける機会を取り除いていいのだろうか。
失敗する機会を奪ってしまっていいのだろうか。

僕らは失敗によって、より多くを学んできたのに。
今の自分を作る「必要な失敗」は無かったのかな。

失敗しなかったら今よりもっと上手くいってた?

そんな保証はどこにもないし、今よりひどい可能性だってある。
小さなやけどをしなかったら、今頃ただれた皮膚に苦しんでたかもしれない。

そもそも、何で失敗を取り除くんだろう。
何のために、誰のためにそうするんだろう。

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