「美しさ」についての雑感


僕らは何かを見て「美しい」と感じる。

美しさを感じる対象は特定の在り方の持つ価値や、形としての正しさ。
形だけじゃなくて在り方も含めたように、それはきっと固まった何かってわけじゃなくて、所作とか状態なんかも含まれる、結構ふわっとしたもの。

美しさは静的なものだけじゃなく、動的なものに対しても感じることがある。
歴史を超えてきた建築物や絵画などはもちろん、卓越した職人や動物の所作にも美しさを覚える。

また美しさっていうのは、視覚情報に対してが主だけど、聴覚情報に対してもその言葉を使ったりする。
視覚的なそれと聴覚的なそれが同じ基準によるものなのかは怪しいけれど。
でも、その他の五感情報に対してそれを使わないってことを考えると、何かしらの共通項はあるんじゃないかな、と思う。


そういう美しさの判断は自分の持つ美的感覚によって行われる。

この美的感覚は2種類あると思っていて、それは「経験によって備わったもの=後天的なもの」と「生まれながらに備えたもの=先天的なもの」。

後天的なものは、文化や学習内容、何かしらの体験、美しいとされるものの記憶などなど、生まれてから培ってきたあらゆる経験によって成立したもの。
これは現在進行形で変わっていく。

この先天的なものはちょっと言葉にしづらいけれど、後天的に蓄積されたものとは関係なしに美しいと感じるもの。
後天的なものは、どの文化に属するか、どの国に属するか、どの集団に属するか、どんな経験をしたのか、そういった要因によって大きな差が出てくる。
集団単位どころか、個人単位でも小さな違いが出てくる。

先天的なものってのは、これとは別に、ヒトという種として「美しい」と感じてしまうもの。
ヒトであれば誰が見ても美しいと感じてしまうもの。
そういうものがあるんじゃないかな、と。

「かな」っていうように、これはどこかに証明があるわけじゃない。
ただ、何となくそう思えてるだけ。

哲学における「美のイデア」っていうのがそれに近いんだけど、ちょっと感覚的には違って。
現代的に言えば遺伝子レベルの何か、っていう方がしっくりくる。

種の根っこにある一要因。
種として価値あるものを生まれながらに判断できるような仕組み。
外にある絶対的なものじゃなくて、判断する側の内に備えたもの。

人間にはそういうものがあるんじゃないかなー、と。

仮にこれがあるとしたら、過去から現在にかけて芸術家が目指してきたように、全人類が美しいと思えるようなものを作ることが出来るかもしれない。
もしかすると、現代に残る、歴史を超えてきた美しさってのは、評価した当時の美的感覚を受け継いだことが理由じゃなくて、人間の美的感覚の本質に触れたからこそなのかもなー、とか。

でも、無いなら現代では原理的に無理っぽいから、全人類の美的感覚の一致っていう天文学的な確立に頼るか、文化を1つにするとかしかないだろうなー。

なんて。

そんな物思ひ。

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