欲求の源泉


何かを食べたいという欲求は自分の食欲を満たすため。

Youtubeを見たいという欲求は、情報を欲するという脳の欲求を満たすため。

難しい哲学書を読むのも、そういったものを読んで賞賛を受ける自分になりたいか、その知識によって獲得されるだろう未来の自分の像を欲するからか。

あるいは、適当にYoutubeを視続けるように、脳の情報欲を満たしたいからか。

誰かを助けたいという欲求は、誰かを助けている自分になりたいと欲する心の欲求を満たすため。

あるいは、自分のしたことで誰かが笑ったり、幸せになっている姿を見ると満たされるから、そのためにやったとも言える。


そう考えていくと、全ての欲求は自分を満たすためになる。

欲求の源泉は全て自分の中。

「他者のために」とか「他者に尽くすべし」とかいう自分の外にある源泉ではなく、全ては自分の本能的、感情的なもの。


この考え方と「自分を満たすために行う善は偽善だ」という考えを足すと、全ての行為は偽善となる。

じゃあ、あらゆる行いは偽善であり、行うべきでないのか?と。

いわゆる聖人しか行ってはいけないのか。


それはちょっと違うと思う。

そんなこと言ってたら、この世界は常に善不足で枯れ果ててしまう。

他人のためじゃなくて、自分のために行うものだとしても、その結果として他人が幸福になるのだとしたら、それは善であり、堂々と行うべきことだと思う。

むしろ自分の心の充足を抜きにして「他人のために〜」とか言っちゃうのであれば「大丈夫かな?」って思う。

それが本当に何かしらの使命感に突き動かされて、そうすることが自分には必要なんだと自然体で口にするのであれば「そっか」ってなるけど、もし自分の感情を偽って従事するのなら、その違和感に心が保たないんじゃないかな。

別にその動機が「自分がそういう世界を見たいんだ」っていう自分を満たすためのものであっても、結果として誰かが幸せになるなら素敵なことだと思うし、その人を含めた当事者全員にとって良いこと。

自分は感情を満たし、行為を受けたものも満たされる。

こういう言葉にすると安くなるけど、Win-Win。
利己ゼロの奉仕はLose-Win。

そう考えると「自分を置き去りにした"誰かのために"」っていう考えは否定されるべきで、「自分の充足を前提にしたうえでの"誰かのために"」を推奨していくべきなんじゃないかな、と。
そんなことをぼんやりと思うのでした。


おしまい。

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