心という資源



ミックスナッツは最強の食べ物なんじゃないか?
近頃、そんな真理を悟りつつあります。

いや、止まらないですよね。
気付けばひたすらにカリカリカリカリカリカリカリカリ...

リスかハムスターみたいに可愛らしいものではありませんが、1つまた1つとナッツをかじり続けている。
食事に意識を向けるようになってから、砂糖の甘みがどうも苦手になってきてしまって、作り置くおやつも甘さを控えるものにしているんですが、そういう点でもミックスナッツって素晴らしいな、と。
カリカリと噛んでいると感じられる自然な甘みとコク。
クルミ、カシューナッツ、アーモンド、ピスタチオ、その他諸々と味も豊富で、風味も豊か。

ミックスナッツ最高か?

欠点といえば、高いことでしょうかね。
あれさえ無ければ毎日貪るのに。

秋の山に思いを寄せつつ、それまではおやつで我慢しておきましょうかね。


全てを蝕む心の摩耗
今回のお題は"心を温存する方法"について。

最近、あることを実感しました。
それは"身体と心の重みの違い"
身体が疲れているとき、心が疲れていなければまだ何かする余裕があるんですが、逆に心がぐったりしているときは身体が疲れてないのに何もする気が起きないことってないですか?

僕はよくあるんですが、これって身体の疲弊より心の疲弊の方が重いからなんじゃないか、と思うんですよ。

それっぽく書けば、「身体 < 心」

感覚としては、「身体 <<< 心」くらいはあります。

自分の資源を効率的に使うためには何とかせにゃならん問題です。
心が摩耗するだけで、他に余裕があっても何も出来なくなるわけですから。

んじゃあ、どうしたらいいのかと。

心を温存するためには、心が摩耗する行動を見分けて、それを避けることが必要です。
ダメージをどうにかするんじゃなくて、そもそもダメージを負わないようにするってことです。

で、その見分けには自分の心の反応を利用します。
人が何かしらの行動を起こす際に生じる心の壁。
これを利用します。

僕の感覚ではありますが、人が行動に至るまでの壁は大きく分けて2つありまして。

それは「価値の壁」「怠惰の壁」です。

1つめの「価値の壁」は"それに価値を感じるかどうか"
心の摩耗を避けるためには、この「価値の壁」に引っかかることを避けなければいけません。

そもそも人間は心(本能)が価値を感じないことには行動を起こしません。
人間は自らのより良い未来を無自覚に描きながら生きているものですが、何かに「価値を感じる」というのは、そこに自分の求める未来像を見出すからです。
そして「価値を感じて行動する」というのは、その未来像が自分の持つリソースを支払うに足ると感じたとき。

なので、この本能的な部分を伴わない場合、理性で強引に抑えこんで行動を起こすことになりますが・・・

いやー、これがね、辛いんですよ。

ある程度は本能を無視することは出来ますが、人間の根っこの部分にあるのはあくまで本能(心)。
これを抑えたまま、自分ではなく例えば他人に強いられて価値を感じないことに従事したりするのは、どうしても心が摩耗してしまう。

普段、どんな些細なことであれ、何かしらの行動を起こすとき、あるいは行動の最中に心の辛さを感じるときはこの「価値の壁」にぶち当たっている。
「何でこんなことやってるんだろ」というぼんやりとした思いが出てくるときはそれです。
「何で自分が価値を感じていないことに、自分の時間や労力を支払わないといけないのか」、と。

その対価として幾ばくかの金銭を手に入れられるとしても、心、時間、労力といった、自分の支払うそれらと比較して、見合っていないと感じる場合。
自分の価値観の中で、心の充足というパラメータの比重が大きく、金銭的なものよりも、よりストレスが少なく、より心が満たされることを求める人であればこういった心の辛さを感じやすく、摩耗しやすいです。

僕は普段から能力的な向き不向きを"能力(才能)の適正"と呼び、心の向き不向きに関する適正を"心の適正"と呼んでいますが、心の辛さを感じるのはそれに対する心の適性が無いということです。

心の摩耗を避けるには、この"心の適正が無いこと(=「価値の壁」に引っかかること)"を可能な限り避けることが必要です。
これに対してリソースを割けば割くほど心が摩耗し、それと同時に他のことに回すための心のリソースが枯渇します。

「ストレス(心の疲労)は発散すればいい」だの「ストレスケア」だの「ストレスマネジメント」だの言われていますが、ストレスが一定値を超えると発散させるための行為に回すリソースが削がれていきますからね。
そうなるとバランスなんてとれないですよ。

なので、そもそもストレスを感じないことを選ぶのが最善。

一応ですが、これは何か新しいことをやる際にのみ働くものじゃありません。
ルーティン化した何かに心の辛さを感じることもあります。
日常の出来事や、何となくだらだら続けてしまっていることなどでもそうです。
ふと、そういうものに虚しさや辛さを覚えたら、「もう自分はそれに価値を感じていないんだ」と判断し、切り捨てるかどうかを考えるべきでしょう。

「価値の壁」に関しては以上。


ここからは2つめの「怠惰の壁」についてですが、心の摩耗を避けるための基準は「価値の壁」を認識しておけば大丈夫です。
ということで、こちらは補足になります。

この「怠惰の壁」というのは、「価値の壁」を超えた先にあるもので、"怠惰さが原因で行動に移れないもの"
ようするに、"やる気云々のいつものやつ"。

さっき「価値の壁」に引っかかるものはやるべきじゃないといいましたが、こちらに関してはやるべきです。
考えてみれば当たり前ですが、「価値の壁」の向こうにあるってことはそもそも価値を感じているからです。

「だるい」とか「めんどい」と思っているのは、それに価値を感じていないからじゃなく、生き物として持つ心の働きが原因。
生物学では「ホメオスタシス」と呼ばれるものですが、これは一言で言えば"自分の状態を一定に保とうとする働きや性質"のこと。
生物学では生体の状態を一定に保とうとする働きを指しますが、心にも同様の作用があると言われており、心の怠さはこれを原因としているものと思われます。
要するに、変化することを嫌う仕組みが我々の身体と心には備わっているらしい、と。

手に入るであろう結果自体には価値を感じているんですが、その変化自体に面倒臭さを感じているんですね。

これは僕の経験則ですが、こういう怠さや面倒臭さを感じることってのは、結果として自分に良いものがほとんどです。
今言ったように、そこに至る変化を想像して「だるいーめんどいー」ってなってるだけであって、価値自体は認めてしまっているわけですから。
当たり前っちゃ当たり前。

そう考えると、心が面倒臭さを訴えているときは良い合図とみなせます。
「どうやら価値の壁は超えて、怠惰の壁にぶち当たっているみたいだぞ」と。

なので、こういうときは全部やったほうが良いです。
大体良い結果が出ます。

とはいえ、怠惰さってのは心の辛さとは別の意味で高い壁になります。
「そんな簡単にやる気だせたら苦労せんじゃろ...」というのが本音でしょう。

これに関しては自分に合うやり方を見つけるしかないです。
既にそういう手法を持ち合わせているなら良し、持ち合わせていないなら、調べる。探す。
人類の大多数が共通して持ちうるであろう問題なんて、いくらでも解決策が溢れてます。
本屋に行けば「モチベーション云々」みたいな書籍が火にくべて焼き芋でも焼きたくなるほどに陳列しているはずです。

なので、ここではぐだぐだ書いたりせず、個人的に最も効果があって簡単な方法を1つ。

それは"とりあえずやる"こと。

行動が面倒くさいときはとりあえずやる。
トートロジーみたいだけど、これが一番簡単。

肉体と精神って連動してますからね。
心が枷となって身体を動かさないように、肉体を伴って行動に移せば、心がそれに引っ張られます。
それを上手く利用する。

「これやらなきゃ」と思ったら、心が面倒臭さを覚える前にとりあえず動く。
面倒臭さを訴えだしても、とりあえず動く。

何か作るのが面倒なときは、とりあえず作業場に行って道具や材料を持つ。
記事を書くのが面倒くさいときは、とりあえず一言打ち込んでみる。
そうすれば「怠惰の壁」を超えるための勢いがつきます。

この辺りのモチベ云々に関しては昔書いた記事がありますので、参考にどうぞ。

「自分を動かす自殺法」
http://kairandou.blogspot.com/2017/07/blog-post_19.html

タイトルが物騒なのはお気にせず。


以上、心の反応を利用した「心を温存する方法」でした。



まとめ
心が「つらい」と感じるとき、それは「価値の壁」に阻まれているときで、求める価値(あるいは支払うリソースに見合うだけの価値)がその先には無いということ。
その場合は心の摩耗が激しいので、避けるべき。

心が「めんどくせ」と感じるときは、「怠惰の壁」に阻まれている。
これは「価値の壁」を超えた先にあり、それが求める価値を伴うものであるという良い兆候。
つまりはすべきこと。
心が怠さや面倒臭さを覚えるときは全力でやろう。


今回はこれにてお終い。
ストレスフルな社会にて、少しでもストレスフリーな時間をお過ごしなさることを祈っております。

ではまた次回。
お付き合いいただきありがとうございました。



おまけ
余談ですが、心が面倒臭さを覚えるのは、結果を得た自分への変化に対してなので、そこに至る過程に関しては省略しようがあります。
面倒臭い、怠いと思ったからといって、馬鹿正直にちまちました行程をこなす必要は特に無し。
その過程に工夫を挟んで省略することは考える余地がある。
ただし、その過程自体にも価値を感じるのであればやるべきだし、そうでないならやり方を変えて省略する工夫をすべき。

その辺りはケースバイケースで。

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