否定のコストパフォーマンス



インターネットでも現実でも、何かを否定する人々がいます。
それも適当にSNSや掲示板を見れば何処にでも発見できる程度には大量に。

実際のところ、否定してもしなくても別に自分には関係ないでしょうに、何故かわざわざ一言も二言も三言も余計に口を出してしまう。

よくわからないことで突っかかっていって、傍から見たらただの難癖っていうか、ぶっちゃけ子供のわがままと変わらないようなものがほとんどですが、そもそも"人は何故何かを否定するのか?"


理由は色々あると思うんですが、大きなものとしては"自分の思い描く世界に不都合なものを排除したいから"というのがあります

ことあるたびに書いていることで、こないだもちらっと書いたことに、"人は無意識の内に自分の未来像(求める欲求を満たしている自分)を描き続けている"というのがあります。

喉を潤そうとペットボトルに手を伸ばすのも、大金を手にしようとくじを引くのも、知識に投資するのもこの未来像に一致しようとするからです。
これを前提とすると、人が何かを否定するのはその未来像にとって不都合だから。

自分が不味いと思うものを否定するのも、自分が嫌いなバンドを否定するのも、自分が求める好きなものだらけの世界が濁るからです。
だから、それを消そうとして否定する。
嫌いな人を、その行動も含めて否定するのも同じ。

子供のわがままと変わらないっていいましたけど、そのまんまですね。
自分の求める現実と違うから「やだやだ」と駄々をこねて騒ぎ立てる。

無駄に正当性を振りかざす分、大人の方がもっとたちが悪いかもしれませんね。

もちろん、否定っていう行為は仕組み上やっちゃいけないことではないので、やめろと言うつもりはないです。
あたりまえですけど、僕にそれを止める権利なんてありませんし。
個人の意見としては、そうしたいなら人の権利を侵害しない範囲でやればいいんじゃないかな、といったところ。

ただ、個人的には「否定」はリソースの無駄遣いなので、やめておいた方がいいんじゃないかな、と。

これは別に善なる心から云々かんぬんじゃないですよ。
単に資源(リソース)が勿体無いな、と思うからです。

人間のすべての行動、思考には時間、労力、金銭、心といったリソースが費やされます。
それは「否定」という行為、思考も例外ではない。

そもそも嫌いな何かを否定したところで、それに価値を感じる人間がいる限り、変わらず存在し続けるんですよ。
その場合、ただ自分を無駄遣いしただけになる。

むしろ、自分の無駄遣いで済めばマシな方ですね。
他者の否定など、周りにマイナスを作る振る舞いをすると"そういうことをする人間"というレッテルを貼られるので、結果としてそれ以前よりも価値を下げてしまいかねません。
まぁ、単純に考えても、自分を否定する可能性を持つ人間とは好んで関わり合いたくないと思わないでしょう。

なので、そこに費やされるリソースを別の何かに回して自分の価値を上げる方がよっぽどいいと思います。


じゃあ、もしその自分の嫌う価値観を押し付けてくる場合は、どうしたらいいのか、と。
好きでもないし欲しくもないものを肯定しなきゃいけないのか?というと、それはまた違って。

その場合は「拒絶」すればいいんです。
「肯定」or「否定」じゃなくて、「肯定」or「拒絶」

「あなたがそれを好きなのは構いませんが、自分はそれが嫌いですので、受け入れられません」と避ければいい。
そうすれば相手を否定することもなく、自分が無理に受け入れて消耗することもないからリソースを無駄遣いせずに済む。
心に波立てず至極平穏に自分の好きなことに自分のリソースを費やすことができてハッピー。

ほら素敵。


というわけで、人が否定を拒絶に交換するだけで、日々が無駄にぎすぎすせずに済むのになぁ、と思いながら今日もお茶をすするのでした。

もしあなたが反射的に「否定」するのが癖になってしまっている場合は、ぜひぜひ「拒絶」という択と交換してみてくださいませ。
きっと仏への道が開かれるやもしれませんよ。


では、今回はこんな感じで。
「否定のコストパフォーマンス」に関するお話でした。

また次回お会いしましょう。
ありがとうございました。

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