否定されるべきもの


前回、否定のコスパの悪さについての記事を書きました。

「否定のコストパフォーマンス」
http://kairandou.blogspot.com/2018/07/blog-post_18.html

自分がそれを嫌いだからって否定しても、価値を感じる人がいる限り消えないし、別に自分の価値が上がるわけでもないし、人から嫌われる可能性もあるから、否定はコスパが悪い。
なので、もし嫌いなものがあったとしても否定じゃなくて拒絶にした方がいいんではないじゃろか?って内容でした。

これに関してちょっとした補足なのですが、こういう問いが出てくる可能性があるわけですよ。

「じゃあ、あらゆる物事は否定されるべきではないのか?」と。

全てのものに対して肯定or拒絶というスタンスを取るってことは、否定されるものは無くなります。
なら、全てが存在を許されるべきなのか、と。

もちろん、そういうわけでもなくて。
世の中には"積極的に否定すべきもの"ってのは存在します。

それは社会や世界っていう根っこの部分を揺るがすもの。
個人単位で拒絶や回避していっても、影響が避けられず、その社会や世界全体を駄目な方に崩す類のものです。
厳密に言えば、"否定されなければいけないもの"と言った方が正しいかもしれないです。

ここでよく使う言葉に言い換えれば、"社会や世界の資源(リソース)を減ずる可能性のあるもの"。

具体例を挙げれば、テロ、殺人、いじめ、環境破壊、ネットの誹謗中傷、上記の条件に該当する全てのものです。


これに対してはどれだけコスパが最悪であろうと否定しなければいけません。
放置すれば、コスパ云々を計算するための基盤自体が崩れる可能性があるわけですし。
そんなこと言っている段階じゃない。
この分野に関しては例外と思っていいでしょう。


ただ、ここに関しても注意が必要で。

いわゆる、感情論に正義の面を被せて正当化しようとする人間がいます。
自分が気に入らないもの、自分に不都合なものに対して、「社会的に云々かんぬんで・・・」「〇〇のためには」みたいなことをいう輩が。

ここでいう"否定されなければいけないもの"というのは間違っても、バンドや漫画や食べ物の味などの個人の好みではない。
影響を受ける社会全体の総意で判断されなければならないものなのですが、正義と総意を騙って自分(or自分たち)の主観を押し付けようとします。
そういった正義面している人間には気を付けましょう。

SNSを適当にうろついていたら発言力の有無を問わず案外いるので、気になる方はそういう視点で見てみてください。
苦笑したい時にはおすすめでございます。

僕の書くようなことも観る人から観ればそういう風に捉えられると思いますが、そのへんは読んだ方の解釈にお任せということで。


では、今回はこれにておしまい。
また次回お会いしましょう。

ありがとうございました。

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