成長速度の差について

人は"問い"を持つことで成長する。

与えられたことを継続することで、慣れによる成長じみたものはあるかもしれないけれど、この場合はその与えられたものが問いの代わりとなっている。

「●●までにこれをやること」
とか。
「●●までにこれをやるには?」っていう問いがそこにはある。

この問を大抵の人は満たすことが出来るんだけど、その結果に差が出てくる。
平均の半分くらいの時間で終えられる人もいれば、時間ぎりぎりにようやく終わらせられる人もいる。

その差を才能とか言ったりするけれど、実際はそうじゃなくて。
ほとんどの場合、そこにあるのは要領の良し悪し。

だから、「それを要領よくこなすためにはどうしたらいいか?」とか「半分の時間で終わらせるためにはどうしたらいいか?」みたいな問いを立てて、それに対する答えを探せば要領は良くなり、時間は短縮される。

才能っていうものはこういう部分を自然とこなせてしまう力だったり、平均よりも効率の良いものを無意識的に察する力。
意識的に出来ることを無意識的にやれる力だと思う。

でも、要領の良し悪しに差が出るのは才能かもしれないけれど、それは大したものじゃなくて。
才能があって、スタート地点でリードできるとしても、もっと先に進もうとしなければ、そこから変化しない。
逆に、才能がなくても、正しい問いを持って先へ先へと自分の力を伸ばし続ければ、才能だけあって何もしない人間に追いつき、追い越すことができる。
いくら最初にリードしていたとしても、それだけじゃ伸び続ける人の前に立ち続けることはできない。


つまるところ、要領は後天的に延ばすことが出来るもの。
もちろんこれは要領に限ったことじゃなくて、伸ばせるもの全てに言えること。
それぞれに正しく問いを立て、正しく解けば伸びていく。

何も伸ばそうとしない人は、何も問いを立てない。
何も問いを立てなければ、何も考えない。
何も考えなければ、何も変わらない。


そう考えると、"人は問いを持つことで成長する"ではなくて、人は"欲求"と"問い"によって成長すると言えるのかも。

「もっと美味しく」
「もっと速く」
「もっと丁寧に」
「もっと鋭く」
「もっと多く」
「もっと美しく」
「もっと上手く」
「もっと汚く」
「もっと醜く」
「もっと臭く」
「もっと悲しく」
「もっと楽しく」
「もっと面白く」

という欲求があり、それらに対して

「どうやって?」

と考える。

求める方へ現状を変化させようとする"欲求"と、それに対する"問い"があれば、必要な過程が見えてくる。
その過程を正しくこなすことができれば、それが成長となる。

面倒くさがりな人や飽き性な人、自分の持つ時間や労力といった資源(リソース)を大事にする人はこういう能力に長けている。
面倒くさがりは早く終わらせることを望み、
飽き性な人は何度も同じことを繰り返すことを嫌うから、楽しい過程を探したり、最短のルーティンを考えたりするし、
自分のリソースを大事にする人は、早く終わらせることが出来るものは早く終わらせて、それ以外に回す時間を確保したいと考える。
その結果、それらに見合うものを答えとして出すことが自然と出来るようになるから。

逆に、欲求や問いを持たない人は、持つ人よりも成長が遅い。
だって、何も変化しようとしないから。
偶然価値ある何かに出会い、それを取り入れることでしか成長することは出来ない。


欲のある人は強いと言われるけれど、根っこの部分にそういう違いがある。
まぁ、欲求の薄い人は、今で満足しているからこそ望まないって考えられなくもないから、当人にしてみればそれでいいのかも。


ともあれ、ここまで書いておいて何が言いたいかというと。

意識的な成長には何かしらの"欲求"をきっかけとして生まれる"問い"が必要なので、もし成長を望むなら、自分の素朴な欲求をお大事に。
そして、それを叶える問いもお大事に。

自分の成長に関してはもちろんのこと、誰かに教える際もそのことを考えてみると宜しいのではないじゃろか、と。

以上。

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