僕らには「常識」っていうものがある。
これは"ある集団やあるカテゴリ、ある状況における共通認識、共通の価値観"の こと。
「◇◇においてはこうすること」
「〇〇をするときは、これをしてはいけない」
とか。
(具体例を挙げれば何MBの文字量になるのかわからないから、とりあえず抽象的な書き方でご勘弁)
僕らは常識とするものがそれぞれ違う。
そして、"互いの常識は違うことを踏まえた上で、相手の常識を確かめないと、正しく理解しあうことは絶対に出来ない" 。
"ある集団や・・・"と書いたように、常識っていうのは1つじゃない。
それらの数だけ常識は存在する。
自分の国とお隣の国でそれは違うし、もっと言えば、自分の県と隣の県、自分のクラスと隣のクラス、自分の家と隣の家ですら常識は違う。
現代では、ネット上に広がるコミュニティの数だけ常識がある。
僕らは日常的に常識っていうものを前提として会話する。
でも、これは前提としてまともに成り立つものじゃない。
だって、自分の常識と相手の常識って違うから。
自分が常識とするものは、自分が育ってきた環境、自分が属する集団、その他諸々によって形作られている。
これは相手もそう。
相手の前提とする常識は、相手の育ってきた環境、相手の属する集団、その他諸々によって形作られている。
だから「同年代で同性だから」はあまりにも薄っぺらくて、「日本人だから」なんてのは前提とするには薄すぎてほぼ無いに等しい。
今のコミュニティ社会を考えれば、全く同じ常識(前提)を持ってるなんてことは考えられない。
常識は違って当たり前のもの。
細かく分かれすぎて、"常識なんて存在しない"っていう方がいいのかも。
で、常識が違うとどうなるのか。
そもそも常識が違うってことは1+2=3じゃなくて、1+2=8みたいになってるってこと。
別の例であれば、りんごは赤いものが常識なところもあれば、青いものが常識のところもある。
魚は火を通すのが当たり前のところもあれば、生で食べるのが常識ってところもある。
僕らはこういう"小さな当たり前の上に" 色んな意見を組み立ててコミュニケーションをするから、その土台が違っていると延々と噛み合わない。
上でも書いたけれど、言葉が同じでもそれは起こりうる。
というか、言葉が同じことと、価値感が同じことは全く関係ない。
言葉は違うけど、価値観はかなり近いってことは全然ありうる。
だから、もし常識を前提として対話をしたいのなら、互いの常識を確かめ合うこと。
1+2=3で、りんごは赤で、魚は火を通して...ということを、話し合いに必要な条件が全部揃うまで確認しあう。
もちろん、それをやっても完全に理解し合える出来るってわけじゃない。
人って常に変化するし、自分で自分を理解できないから。
でも、必要最低限のすり合わせができれば、最低限のコミュニケーションは出来る。
だから、対話を求めるならまずはそれをやること。
正しい理解はそれから。
人間だから、日本人だから、同じグループに属しているから、お隣さんだから、"解るはずなんてのは紛れもない夢物語という現実。
少なくとも、無条件にはわかり得ないってことを常識にすることが最初の一歩なんじゃないでしょうかね。
これは
「◇◇においてはこうすること」
「〇〇をするときは、これをしてはいけない」
とか。
(具体例を挙げれば何MBの文字量になるのかわからないから、とりあえず抽象的な書き方でご勘弁)
僕らは常識とするものがそれぞれ違う。
そして、
"ある集団や・・・"と書いたように、常識っていうのは1つじゃない。
それらの数だけ常識は存在する。
自分の国とお隣の国でそれは違うし、もっと言えば、自分の県と隣の県、自分のクラスと隣のクラス、自分の家と隣の家ですら常識は違う。
現代では、ネット上に広がるコミュニティの数だけ常識がある。
僕らは日常的に常識っていうものを前提として会話する。
でも、これは前提としてまともに成り立つものじゃない。
だって、自分の常識と相手の常識って違うから。
自分が常識とするものは、自分が育ってきた環境、自分が属する集団、その他諸々によって形作られている。
これは相手もそう。
相手の前提とする常識は、相手の育ってきた環境、相手の属する集団、その他諸々によって形作られている。
だから「同年代で同性だから」はあまりにも薄っぺらくて、「日本人だから」なんてのは前提とするには薄すぎてほぼ無いに等しい。
今のコミュニティ社会を考えれば、全く同じ常識(前提)を持ってるなんてことは考えられない。
常識は違って当たり前のもの。
細かく分かれすぎて、"常識なんて存在しない"っていう方がいいのかも。
で、常識が違うとどうなるのか。
そもそも常識が違うってことは1+2=3じゃなくて、1+2=8みたいになってるってこと。
別の例であれば、りんごは赤いものが常識なところもあれば、青いものが常識のところもある。
魚は火を通すのが当たり前のところもあれば、生で食べるのが常識ってところもある。
僕らはこういう
上でも書いたけれど、言葉が同じでもそれは起こりうる。
というか、言葉が同じことと、価値感が同じことは全く関係ない。
言葉は違うけど、価値観はかなり近いってことは全然ありうる。
だから、もし常識を前提として対話をしたいのなら、互いの常識を確かめ合うこと。
1+2=3で、りんごは赤で、魚は火を通して...ということを、話し合いに必要な条件が全部揃うまで確認しあう。
もちろん、それをやっても完全に理解し合える出来るってわけじゃない。
人って常に変化するし、自分で自分を理解できないから。
でも、必要最低限のすり合わせができれば、最低限のコミュニケーションは出来る。
だから、対話を求めるならまずはそれをやること。
正しい理解はそれから。
人間だから、日本人だから、同じグループに属しているから、お隣さんだから、"解るはずなんてのは紛れもない夢物語という現実。
少なくとも、無条件にはわかり得ないってことを常識にすることが最初の一歩なんじゃないでしょうかね。
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