人は人を無駄遣う

僕らは些細な行動で他人の資源(リソース)を奪っている。

例えば「ポイ捨て」。

めんどうだからと道端にポイ捨てすると、それを拾う人がいる。
それはその人の時間と労力と心を浪費させている。

もし自分が捨てなければ誰かの時間を奪うこともない。
自分が捨てる時間は自分が負うべきもの。
集団の中で互いが快適に過ごすため、自分が出したゴミは自分で処分するっていう当たり前のルールがあり、それを互いに享受する。

自分だけが楽をしようとすると、他人を歪ませる。


もしかしたら「その人が拾うことでお金をもらってるなら別にいいじゃないかー」って主張もあるかもしれないけれど、だからといって捨てていいことにはならない。
窓の清掃員がいるからって、汚水をぶちまけていいってことにはならない。ように
結果としてゴミが出ることと、ゴミを作っていいってことはまた別の問題。
守るべきは守るべき。

本来やらなくていいことをやっているんだから、そちらに割くリソースは別のもっと有意義なところに割けたはず。
これはたぶん人間の無駄遣い。

ルールがおかしいって思うなら適切な手段で変えるしかない。
それをせずに自分だけが楽をしようとすると、それは他人を歪ませ、全体を歪ませる。
全体が歪むと、全体の中にいる自分が歪んでくる。


理想を言えば、そういう「沢山の自分が全体に及ぼす問題」っていうのは道徳的な観点で解決できる。
一人ひとりがそうすればいいだけだから。

でも、人って自分が価値あると思ったことしかやらないし、自分に直接的な損失があることじゃないと積極的に避けようとしないから難しい。
全体の歪みが自分に返ってくる"実感"なんてそうそう得られるもんじゃないし。

「法で規定すれば・・・」ってのも、ある程度は効果があるかもしれないけれど、相当厳しく縛らないと、いまの状態ならそんなに効果は無さそう。
どこぞの国みたいに。


当たり前を当たり前として考え、行動できるようにするのが理想的。
その補助としてすっごく厳しい法を定めるのは一理ある。

技術的にそういう行為自体が出来ないようにすることが出来るのであれば、「そうすることが当たり前」と意識を変えることが出来るようになるかもしれない。

人を含めて色んな無駄が無くなっていけばいいなーとは思うのだけれど、こういう問題はどう最良最善を定義していけばいいんだろう。
知識不足。



今回の関連記事。

「ぴーすふるなせかいへ〜道徳と法と科学と〜」
http://kairandou.blogspot.com/2018/08/blog-post_20.html

コメント