「世界」と「社会」〜二重存在としての僕ら〜

僕らは「世界」っていう大きな枠組みの中で生きる「動物」だ。
「世界」っていうものの中に「社会」っていう枠組みを作って、その中で生きている。

でも、僕らは「動物」として「世界」に生まれてくる。
僕らの大半は「社会」の中にいる人間が産むけれど、その社会っていうのはあくまで「世界」っていう大きなものの中に置かれた、実体の無い枠組み。
その根っこにあるのは「世界」っていう淡々とした現実。

僕らは生まれた時から「社会」の中で生きるように、「社会」の中で生きることが当たり前のように育てられる。

でも、僕らは「社会」の中で生きることを選択していない。
選択せず、教えられた「社会のルール」に何となく従って生きている。

もちろん、「社会」の枠を飛び出て「世界」の側で生きたいと思う人は中々に少ないとは思うけれど。
それは置いといて。

僕らは「世界」と「社会」っていう2つの枠組みを実感することもなく、自分で選ぶこともなく、ぼんやりとしたところで生きている。
「弱肉強食以外のルールの無い世界」と「法というルールのある社会」。
「世界における動物としての自分」と「社会における人間としての自分」。

僕らはそのどちらに属するか、自分で選んではいない。
生まれた時から「ルールは守れ」、「ルールを破ってはいけない」と言われ続けて、何となく守ってはいるけれど、「守ろう」という強固な決意と共に、"自分の意志で"選んではいない。
だから、ふとした瞬間に「世界の中にいる自分」を自覚し、社会っていう枠組みの薄さ、ルールの薄っぺらさ、法の軽さに気付いてしまう。

その時、僕らが本当に属している「世界」にはそもそもルールが存在しないことを思い出す。
「世界」の中にいる、ただの動物としてのヒト。
それを自覚する。

"自らの力で貴族となった者のみが本当の貴族である"、というけれど、それに近いかもしれない。
自分の意志で社会の中にあることを選んだヒトは本当の意味での「人間」。
それを自分で選んでいない人間は、「人間もどきのヒト」。

これは前後で優劣があるって意味じゃなくて。
あるのは「危うさ」。

「社会」に属している人間が"社会にいるヒトは全て自分と同じように社会的な価値観を持った人間"ってことを前提とする危うさ。
僕らはあくまで動物で、"互い"の利益のために社会状態を選んでいるだけ。


大事なのは、僕らは「社会」を構成する「人間」として生まれてくるわけじゃなくて、「世界」の中に「動物」として生まれてくること。
僕らの大半は"「人間」として「社会」で生きること"も、"「動物」として「世界」で生きること"も選んではいないこと。
ただ、「人間」としての振る舞いを教えられて、「動物」であることも「人間」であることも考えず、それを被って生きているだけ。

「世界における自分」と、「社会における自分」の二重存在として僕らは生きている。


なんてことをぼんやりと考えてみた。
これって色んな問題の原点にあったりすると思うんだけど、どうなんでしょうね。

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