狭く、小さく、細かく、深く

外部化と貨幣によって、僕らは広い世界を認識せずに生きていけるようになった。

共通の対価である"お金"を支払えば、それに応じた価値と交換することが出来る。
昔は自分で身につけることが当たり前だったようなことも、それによって人任せすることが出来るようになった。

自分は自分のすべきことを深く掘り進め、それ以外のことは誰かに任せる。
すべきだったことは必要なくなり、学ぶべきだったもの必要なくなり。
細かく分けられ、外部化される。

その結果、複雑だけど便利な枠組みが出来上がった。

興味が無いこと、やりたくないことはやらない。
その代わりに、興味があることややれることをやる。
自分に出来ないことは相応の対価を支払って誰かに任せる。

自分が広く多く学ぶ必要は無くなった。
そして、全体は豊かになった。

良いことずくめ。

に見えるけれど、もちろんそんなわけもなく。

広い世界を認識しなくてもいいってことは、狭い世界で生きるってこと。
誰かにしてもらっていた「自分に出来ない」ことは、誰かの手が無いところでは出来なくなる。
時として、その機会を放棄したつけは回ってくる。


他にも大事なことはある。

小さく分けられた場所に属して、そこで枠組みを作る機能として在り続けるってことは、そこでしかいられなくなるっていうこと。
その機能として自分を深く彫り込んで、それに特化したものとしてしまうっていうこと。
そうすると、別の機能として自分を作りなおして、別の何処かへ引っ越すことがとても難しい。
出来ないわけじゃないけれど、難しい。
自分を特化させたように、他所でも自分をその場に合わせて特化していかないといけないから。
同じくらいの時間をかけて、深く深く彫らないといけない。
外に任せることで、それを開けて学ぶことが必要なくなった。
でも、いざ外に出て別のところで自分を新しく作りなおそうとすると、そのブラックボックスじみたものを開けていかないといけない。
自分が今までいたところでやったように。
その居場所に応じたブラックボックスを開けないといけない。


それだけじゃない。
全体を構成する小さな機能っていうのは、その代わりが出来たり、それ自体が要らなくなったりすることがある。
小さく狭いところに在り続けるってことは、全体が見えなくなるってこと。
「外」は見ようとしなければ見えないし、小さな場所で周りしか見ないでいると、気付かない内に遠くからやってくる大きな流れに呑まれて消え去ってしまうことがある。

僕らは多くを知らなくても豊かに過ごすことが出来るようになったけれど、それは多くを知らなくていいってわけじゃない。
自分の場所がどうなるかを知るためには外は見ておかなければいけないし、外で何が起きているのかを理解するためには、少しだけでも見方を学んでおかなければいけない。
何でも誰かに任せられるようになったけれど、そこにある仕組みを知るには自分でやってみるしかない。
自分でやってみて初めて見方がわかる。
自分の機能と、外の機能のつながり。
外にある流れと、歪み。
歪みが自分のところにどんな問題を起こすのか。


狭い世界で好きなものごと、見たいことものごと、触れたいものごとに囲まれて過ごすことが出来るようになったけれど、それによって僕らは外を見なくなった。
自分を無理に広げなくていいっていうのはメリットだらけじゃなくて、狭くなることで大きな大きなデメリットが生まれてくるんだよなー、と。

そんな物思い。

コメント