小さな箱庭の大きな選択肢


僕らは"見えるものしか見ないし、見たいものしか見ない"
「見えるもの」っていうのは知らないもの。
これは見えなくて仕方が無いもの。

問題があるのは「見たいもの」。
「見たいもの」っていうのは興味があるもの、価値を感じるものってこと。

興味がないものは、理性的に考えて"価値あり"とわかっていても見ない。
意識的にそうしようと訓練した人はある程度見ることはできるけれど、そうしていない大抵の人は出来ない。
ただ、本能的に価値を感じるものを見る。

必要なものは、必要とわかった時にしぶしぶやる。
でも、必要となる時っていうのは、ゆるやかなものとは限らない。
「●●のために必要だから身に付けておいてね」という時もあれば、何かしらの損失を被ってからようやく必要だと思う時もある。

後者の損失を避けたいのなら、日頃から理性の声に従うしかない。
たとえいま必要ないものだとしても、興味が無いものだとしても、持たなければいけない。

もちろん、実際にそれを使うことがあるとは限らない。
興味がないことを身に付けるのも、要らないものを持つのもコストが高い。
ただ、取り返しのつかないことが起きてしまえばコストなんて言ってらんないわけで。

大事なのは"自分が納得できるかどうか"
選択肢はいつも存在する。
判断材料もいつも存在する。

それらを考えてみて、備えていなくて取り返しがつかなかったことに納得できるならそうすればいいし、取り返せない万が一を恐れるならコストを払うといい。
少なくとも、"判断も選択も出来る内にする"こと。

目に見える価値っていう"プラス"に飛びつくのもいいけれど、そのプラスよりも大きな"マイナス"を避ける選択肢がそこら辺にあるってのは覚えておかないといけない。
残念だけど、この世界は見たいものしか無いような世界じゃないみたいだから。

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