村人Aから自分へ

どうも寒さに震える糸凪邑でございます。


今回は「自分であるための資源学」について。


いきなりでナンノコッチャって感じですね。

元々、僕がやってる「空藍の揺り籠(HollowCradle)」は、「自分であろう」ってのを主題として、そうあるために必要なことやら何やらを書いたり作ったりしてまして。

日常で役立つアプリ(や、そうでないものも)を作ったり、
世界にたった一つしか無いアクセサリを作って売ったり、
文明から離れて手間をかけて料理するなんちゃってサバイバルキッチンをそこらの山の中でやったり・・・

どうみても統一感は無いですが、これら全て関わる人が「自分である」ということを目的としたものです。

で、そもそもとして。
「自分である」とはどういうことなのか?

それをこれから説明していきます。



かくあれかし

僕らは自分自身の中に「こう在りたい」と願う理想像を抱いています。
それは、意識的ではなく「無意識的」に、です。

つまりは自覚をしている場合が少ない――もうちょっと言えば、正しく自覚するのが非常に困難な――ものなのですが、「自分である」というのは

『自分の持つ"時間"や"労力"といった「資源(リソース)」を用いてその理想像に至ろうとしている状態』

を指します。

なので、端的に言えば、「自分であるための資源学」というのは、
「自分の在りたい形に近付けるよう、自分の持つ資源とその使い方について考えてみよう」
ってことなのです。



垂れ流される有限な"それら"

お次は「自分である」という謎ワードについての説明で出てきた"資源(リソース)"について。
おそらくこれは感覚的に理解できる部分なので、あえて説明する必要はないかもしれませんが、欠かせないことなので詳しく書きます。


僕らは皆"資源"と呼べるものを持っています。

それは「時間」「労力」「資本(お金)」etc...といったものです。
そして僕らはそれらを消費して色々なものを手に入れることができる。

心を楽しませる娯楽、
自分の身を飾る品々。
生きるために必要な食べ物、
身体を整えるための医療サービス。
その他諸々・・・。

挙げればキリがありませんが、僕らはそうやって、自分の持つ資源と引き換えに何かを手に入れることができます。

ただし、その消費の方法には2通りあります。

「自分の価値に還元される使い方」

そして

「自分の価値に関与しない使い方」

です。

この使い方の違いが、各人の価値を決め、その間にある格差を広げていく大きな要因になります。

で、これらの差は何なのかですが、前者は簡単に言えば、『本を読んで勉強する』のを想像してもらえればよろしいかと。

毎日こつこつと時間をかけてその本から何かを学び取り、自分の身にする。
自分の「時間」と「労力」を自分の「価値」に還元してますね。

それが一つ。


で、問題は後者です。

これは・・・そうですね。
『ネットでおもしろ動画を5時間くらい視る』ような状態を想像してください。

つまりはそういうことです。
自分の「時間」を一時の脳の「快楽」に変えている、とでもいえばいいのか。

こういうのは大抵は自分の「価値」には触れませんよね。
もしかしたら、自分がそれを知っていることでお仲間とのちょっとした会話の種になることはあるかもしれませんが、大体その程度。

手に入るのはただの「情報」であって、「知識」ではない。
雑学博士が本当の博士ではないように、その2つは全く別物ですから。

一応、そういう暇つぶしからでも価値を汲み取れるやり方はありますし、そうしている人は一定数います。
とはいえそれは極少数。

大多数は情報の形でしか扱えずに、「あーおもしろかった。次のやつみよ」で終わりますので、その少数派には言及しません。

なのでこれは大多数にとって、価値に関与しない資源の使い方です。

ちなみに、この使い方には一つ重要な性質というか副作用みたいなものがありまして。

その状態を継続すると「虚しさ」や「勿体無い」といった感情が芽生えるんですよ。

もちろん中にはそうならない、ツワモノ――という表現が正しいのかわかりませんが――もいるようですが。

ここでするのはそういった"ツワモノ"の方には全く微塵もお役に立つことが無いお話なので、そっとこのページは閉じていただいて、いつものようにY●utube等で動画をお探しにでもなられた方がよろしいかと。

もしあなたがそうではなく、唐突に訪れる虚しさをご存知であれば、そのままお付き合いを。



何が君の幸せ?何をして喜ぶ?

では、そもそもこの「虚しさ」とは一体何なのか。
僕らはどんなときに虚しさを感じるのか。

答えを言ってしまえば、それは

「自分が費やす時間や労力が、費やした労力以上の変化をもたらさないことを続けるとき」

です。

つまるところ、僕らは無意識のうちに自分の費やす資源について考えている。

そして、自分の持つ資源が、自分の価値に還元されることの無いまま浪費されていて、自分が望む「理想の在り方」との距離が一向に縮まらないことに対して違和感を抱いているわけですね。

「んー、何かおかしいなー?」と。

ただでさえ僕らは生き物である以上、何もしてなくても「時間」という資源を消費していっている現実があるのに。

それに加えて、自分を一時満たすだけのために、限りあるものを費やしている。
でも自分の価値は変わらない。

それどころか、似たような刺激を与え続けることで、脳が飽きて硬直化してきますから、もしかしたら価値は費やせば費やすほど下がっているかもしれない。

そりゃ虚しいし、勿体無くもありますよ。
美味しい美味しいって脳を喜ばせるためだけに与える、大した栄養もないジャンクフードみたいなもんに自分の時間と労力を支払うだけ支払って、身にもならないんですから。



そういうのが嫌なら、自分の資源について真面目に考えないといけない。

価値にならずに消えていく資源を減らし、自分の身になる使い方を。

あなたがこう在りたいと思える姿へ向けて、その間をあなた自身の持つ時間や労力をかけて生み出す価値で、ちまちま埋めていかなきゃいけない。

不意に寄り添う「虚しさ」から逃れて、本当の意味で「充足する」ために。

そのためにここで提案するのが「自分であるための資源学」なわけです。



・・・といっても、ここで具体的に何をしようというのは決まってないです。

「自分であること」っていうゴールだけは決まってるんですけどね。
現状では「こういうことを書こうかなー」っていうぼーんやりしたイメージがあるだけです。

なので、もし「こういうことが知りたいなー」ってのがあれば言って下さい。
一方通行で僕がだらだら書き綴るのも面白みがないし、そうすることに大した価値はないと思ってますから。

本当に必要なのは、関わる人たちみんなで一緒にああでもないこうでもないって考えながら、最もよい在り方を考えていくことです。

なので、ぜひ考えたこと、思いついたこと、疑問でも何でも僕に教えてください。
そうやって一緒に良い結論を導き出しましょ。

では、またいつになるかわかりませんが、次回の記事にて。





■追伸■
感想、質問などがありましたらこちらまで。
hollowcradle_hc◇gmail.com
※◇を@へ。

数が多い場合は個別にお返事することが出来ませんが、必ず読みますし、大事なところは内容に反映していきます。
何より嬉しいので記事を書くモチベが上がります。

また「あんた、いいこと言っとるやんけ」って方は記事をシェアしてくれると、より多くの人に読んでもらえるのでとてつもなく助かります。
宜しければ是非。



■余談■
※最初のほうで、僕らは自分の中に「こう在りたい」と願う理想像を持っている、と書きましたが、これは厳密に言えば「こう在りたい」ではなく「斯く在るべし」と自分を律する意思を伴うものです。

この違いは説明するとだいぶ話が逸れるので、またいずれ別の機会に。


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