知らない自分


お久しぶりです。
糸凪邑です。

こちらのブログを最後に更新したのは半年以上前。
月日は百代の云々かんぬんといいますが、まぁ早い。
毎日何か作ってたり、合間に散策したりしてたら一瞬で過ぎていきます。

年を重ねる度に時間は加速していくとはよく言ったもので、それはきっと一次関数的なものではなく指数関数的なんじゃないかな、と。
80歳になったら、一年が10代の頃の一週間と等しいのかもしれない。

言い過ぎかもしれませんが、体感的にはそう思えてしまいます。

いやはや、時は万人に平等とはいえ無情だなぁ。



まぁ、それはいいとして。
唐突ではありますが、空藍の揺り籠のYoutubeチャンネルを作ってみました。

「空藍の揺り籠〜HollowCradle〜」
https://www.youtube.com/channel/UCdaJdJuqO7sMUEOfCUy5QTQ

投稿内容は、日々の制作、散策中の発見、景色なんかを中心に、気ままにゆるーく投稿していこうかなと。

もしよければご覧くださいまし。
皆様の時間の浪費、あるいは世界がちょっとでも広がるようなものを目指します。



ちなみにこちらは2本目の動画。




だいぶ前ですが、深夜の作業中の一幕です。

突然降りだしたと思ってたら、この有様。
雨音は素敵なBGMだと思っているので良いのですが、ご覧の通り雷混じり。

光るだけならまだしも、身体に衝撃が走るような轟音。

距離があれば音が届くまでに「来るなぁ」と身構えることも出来るのですが、これだけの至近距離だと無防備な頭に直撃します。
内心で「おふっ」となっていました。

ただ、こういう恐怖って何故感じるのでしょうね?
雷に撃たれたことがあるのであれば経験則として"恐れるべきもの"、"避けるべきもの"となるのはわかるのですが。

少なくとも僕は雷の被害にあったことは無いし、どんなものかを想像する素材もない。
なのに避けてしまう。
雨が好きな僕でも、歩いて出るのはやめておこうと思ってしまいます。

これが生物としての本能的な恐怖というものでしょうか。
「一定値を超えた大きな音には注意すべき」みたいなパターンが刻まれているとか。

もしそうなのであれば、本能的な部分っていうのは、何というか自分の中に知らない自分がいるようで。
もちろん、自覚可能な部分を全て自覚できるというわけでもないのですが、自分の反応に疑問を持つほどの何かがあるというのは大きな違和感があります。

理性がどうこう言ってはおりますが、人間も動物でしかないのだなぁ、と思うひと時でございました。

もし、あなたが同じようなことを発見しましたら、ぜひぜひ教えてくださいませ。



ではまた。