過去の蒐集家



先日、食材を買いに入ったスーパーで出会った「スイカ味のクッキー」に心奪われたものの、何故か手に取ることなく去ってしまったことを後悔している糸凪邑でございます。

みたらし味のアイスとか、枝豆豆腐味のアイスとか、ハッピーターン味のアイスとか(何かアイス多いな)、そういう地雷は積極的に踏みにいくのが趣味なんですけど、今回は何故か避けてしまいました。

パッケージには「すっごいスイカ味!」と書いてあって、この全力感に思わず衝動買いしそうになってしまったんですがね。

「こんな感じかなー」と味に想像がつきそうだったのがその原因でしょうか。

まぁ、地雷を踏みぬくことが趣味って人は稀ですし、次に行った時にも残っているでしょう。

その時はお手合わせ願いたいと思います。



削って削って削って

さて、今回のお話は、前回お話ししたことから一歩進んで、3ステップの2つ目。


「不要を削ること」です。


ということで、ここで書くべきは一言。

前回構築した「最小限の定義」に従って、不要なものを削り尽くしましょう。



以上です。

ご理解いただけたなら、もう今回はこれ以降読む必要はありません。

すぐさまブラウザを閉じて、不要なものを片っ端から処分しましょう。


ではまた次回。
ありがとうございました。








・・・おや?

まだお読みになられている?

てことは、「捨てろと言われても、そんな簡単に捨てることはできない」という方ですか。

ふむ、なるほど。

では、もう少しお付き合いいただきましょう。

ここからは「あれも惜しい、これも惜しい」と手放すことをためらって、いつも小さな変化にとどまる方への問答のお時間です。

もしかしたら多少強引かも知れませんが、おそらく何かしらのお役に立てるのではないかと。




引き摺って、磨り減って、縛られて

そもそも。

そもそもですよ。

何故ものを捨てられないのでしょう?

僕はですね、人ってのは自分の周りに要らないものがあるとしたら、それを見た時に自分の中で即座に「要らないもの」と判断できていると思うんですよ。

もうちょっと言えば、いちいち「これはどうだろう?」と考えて結論を出しているのではなく、一目見た時に要らないものは要らない、要るものは要ると即断できている。

でも、いざ捨てるとなると、「いやー・・・」とか「でもなあ・・・」となってしまう。

この時、直感的には「要らない!!」って思うんですよ。

でも、それと同時に何処かにある「捨てたくない」という気持ちが、理性に働きかけて「捨てないでいい理由」を考えようとする。


まずはこの「捨てたくない」という主張の妥当性について考えてみましょうか。





1.持ってりゃいつか役に立つ

お役立ちグッズみたいな類、或いは、昔の教科書などがこれに該当するのでしょうか。

あとは、無料で頂戴した何かなど。

確かに、役立つものとして配られた、或いは買うように促されて手にしたものですから、そのうち活躍する機会は訪れそうです。

可能性として無くはない。




2.自分を磨くためにいずれ使おうと思っている

趣味などの道具類ですかね。


誰かや何かに憧れて買ってみたはいいけれど、結局使わなかったもの達。


「今は部屋の隅で埃を被ってたり、押し入れの中に放置されているけれど、いつの日かそれを手にして一芸なぞ身につけてみせよう」、と。


こちらもいつになるかわからないですけれど、そのうち価値を発揮すると言えなくもない。

「その"いつか"は明日かもしれない」なんてことも、まぁ否定はできないですね。

もしかしたら、その瞬間に秘められた自分の才能が開花して、人生に転換期が訪れるかもしれない。

実現可能性としても、未来への大きな期待を捨てないという点でも、充分ありな理由に思えます。




3.買ったのに勿体無い

これはものを捨てられない理由としては最も多いんじゃないでしょうか。

「〇〇円したのに、1回も使ってない・・・」

とか、よくあることですよね。

あ、「1回は流石に無いけど、何回か使った」という場合の方が割合としては多いのかな。


例えば洋服など。

「買った時は幾つものショップを巡り巡って、悩みぬいて買ったのに、着たのは2,3回・・・」みたいな。

僕も経験があります。

それも、数回と言わず何十回も。


確かに、それを買って大して使いもしないまま手放すというのは勿体無いんですよね。

そこそこ値が張るものであれば尚の事。

買った時は「気の迷いだった」と思えるかもしれないけれど、その価格分は使わなければ損失と感じてしまう今の自分。


これはもしかしたら、捨てられない理由としては1,2を争うほどに"強い"ものかもしれません。

とはいえ、ファッションは流行り廃りのサイクルが短いものであり、またよっぽど酷いものでなければ自分の工夫次第で何とかなるもの。

そう考えると、捨てる必要は無さそうな気がします。





さて、「捨てたくない」とする理由として、ぱっと思いつくのはこれくらいでしょうか。

案外どれもわからなくはないものばかりでしたね。

これらは今、思いつきで書いているのですが、自分でも「なるほどなー」となるものはありました。

というか「覚えがあるもの」ですかね。



では、次はこれを踏まえて、「捨てたくない」と喚く感情を叩き潰して「捨てる」ための主張を。

こちらも数を合わせて3つほど考えてみましょうか。





其の壱:過去の自分の意思という足枷

あるものを"自分の意志"で手にした時、「それを持つことで自分がこうなれる」と、何らかのイメージをしたはずです。

だから、それが価値を発揮していないうちはまだ保有し続けようとしている。


僕はですね、何かに対する執着ってのは「過去の自分の決定を固持しようとすること」から起きるものだと思ってるんですよ。


「手に入れた時に成ろうとした自分にまだ成れてない。
でも、ちゃんと使えば自分はそれに近づけるんだから、持っていなきゃ」、と。


確かに、一度決めたことを成し遂げようとするのは大切なことです。

意志の一貫性は社会に生きる人としては望ましいものですからね。

少なくとも、恣意的であるよりはずっといい。


ただ、ここで1つ考えていただきたいことが。


人間って、変化しないものですかね?


さっき服の例を出しましたけど、人の洋服の好みって、数年で変わったりしませんか?

もし変化がないなら、食べ物や音楽など、別のものに置き換えてもらってもいいです。


そういうものって、ずっと変わらないものですか?


僕はそうじゃないと思うんですよ。

変化の程度と原因はなんであれ、人間は変わります。


過去よりも現在の自分が進化していると思うのであれば、過去の自分の意志は上書きされるべきじゃないでしょうか。

なので、過去の意志に執着するのはやめましょう。

そんなものはこれからの自分を妨げる足枷にしかなりませんから。


もちろん、変化には「進化」と「退化」の2種類があります。

もし、今の自分が退化の結果だとしたら、過去の自分の意志を省みることでその時点まで引き戻せるかもしれません。

そういった場合は、即座にその価値を発揮させるべきだと思います。


でも、そうでないなら。

現在の自分が過去よりも進化しているのであれば。

それは捨ててしまうべきでしょう。




其の弐:価値の在り処

これは其の壱で言ったことと少し関連しますが、人によって作られたものというのは、使われてこそ価値が発揮されるものです。

使われないものに、価値は存在しません。


誤解されないように付け加えておきますが、ここでいう「使われる」ってのは、道具としての用途に限った話ではないです。

鑑賞目的として作られたものがその用途を果たすことも含まれています。

簡単に言えば、「鑑賞されるべきものは鑑賞されてこそ価値がある」。

しかし、自分すらも見ないのに持っているだけの状態で、その価値は何処かに発揮されているのか。

ましてや、使われるために作った道具であれば、何処に価値が存在するのでしょう。


「作りたいから作った」という類のものであれば別にいいです。

僕も特に用途を定めずに作ることはありますし。

そういうものは買って頂いた方の好きにすればいいんじゃないかな、と僕はそう思ってます。

でも、「何らかの役に立って欲しい」と願って作られたものであれば、それは価値を発揮されるべきです。


もし使わないのであれば、それを必要とする誰かに譲ってしまいましょう。

もちろん、作り手の期待通りの使い方でないかもしれませんが、微塵の価値も発揮できないでいるよりは何らかの価値を発揮するほうがずっとよいでしょう。


新たな持ち主としては、手に入れて幸せ。
作った人も、使われて幸せ。
使わずに過去に縛られていた自分も、解放されて幸せ。

どうです?
こんな簡単にみんなが幸せになれることは中々無いんじゃないですか?




其の参:錆びた棘

こちらも執着から来るものですが、其の壱が「自分の変化を縛るもの」だとしたら、こちらは「執着が結果として精神にもたらすもの」。

これは潔癖な性質が強い人ほど"クる"かもしれません。


先ほど「過去の自分の意志が足枷になる」と言いましたね。

その意志が実を結ばないまま、部屋の何処かでガラクタとして放置されるのを見る度に、自分はどう思うでしょうか。


「まだ出来ないの?」
「何で出来ないの?」
「やると決めたこともできないの?」


と、自分を苛むことになるのではないでしょうか?

これはストレスです。

しかも、進化を促すためにかかるもの(淘汰圧)として作用させられるものではなく、害となるものです。


そういったものは心に負担を生む原因になります。

そんな大げさな、と思われるかもしれませんが、人間の心ってのは無意識・無自覚のうちに疲弊していきます。

問題として表面化してくるときには、すでに深刻なダメージがあったりするのです。

なので、こういった小さな原因は積極的に取り除いた方がいい。


さっきも言いましたが、人間ってのは変化していくものです。

使って得られたかもしれない未来と、使わずに今自分が在る現在。

そこには、妬むほどの差があるものですか?

現在の自分では耐えられないほどの不満を抱えているのですか?


Yesなら、自分にはその適性が無かったと諦めればいいんじゃないですかね。

それが嫌なら、上で言ったように今すぐにでも「価値を発揮」させれば。


逆にNoと。

つまり、今の自分にそれほどの不満がないなら、もう手放していいじゃないですか。

価値を発揮してくれる誰かに快く譲りましょう。

「自分が持っていても過去の自分からちくちく刺されるから、あなたに差し上げた方が良さそうだ」、と。


心を苛むものに耐え続けても意味はありません。

腐る前にどちらか選択しましょう。





とある問答

さて。

「捨てたくない」という主張と「捨てろ」という主張。

両方挙げてみましたが、どうでしょうか。

いや、「どうでしょうか?」と言われても曖昧ですね。


「どちらを選びますか?」


前者により大きなメリットを感じるというのであれば、捨てないほうがいいです。

そして、ここで僕が綴っている文章を読む時間もおそらく取るべきではないです。

単純に時間が勿体無いですからね。

なので、さっさとタブを閉じて、それらのものを大事に大事に保管し、いつの日か役に立つその時を待ちわびましょう。


でも、後者を選ぶというのであれば。

すぐに捨てるべきです。

いや、「捨てる」というよりは、「処分」ですかね。

不要品として「捨てる」か、まっとうな価値を発揮してくれる誰かに「譲る」。

どちらかを選択しましょう。

作った人にとっても、その新しい持ち主にとっても、そしてあなたにとっても、それが在るべき形かと。


あ、もし処分ではなく「使用」を考えるのであれば。

すぐさま使いましょう。

使わないで置いておいたのがこの現状です。

なので、決断と行動は素早く。

「処分する」と決めたなら「処分する」。
「使う」と決めたなら「使う」。


これからの自分のために、「定義された最小」に不要なものは淡々と削りさってしまいましょう。



では、今回はこの辺で。

身軽な在り方へ至るための第2段階でした。





余談

もし、捨てられないものが特定の誰かからの「貰い物」や、どうしても手放せないような思い入れのあるもの――例えば形見などだとすれば、そういうものは持っていてもいいと思います。

勿論、捨ててもいいです。

今の自分にとって価値あるものが、それを捨てることによって得られるというのであればそうすべきでしょう。

ただ、それを守ることで得られる価値というのもおそらくはあると思いますので、そこらへんはご自分と相談したうえで決められたらよろしいかと。

上でもちらりと触れましたが、思い出というものは時に自分を修正することがありますからね。

あくまで、自分の理性と話し合って、どうすべきか考えましょう。





追伸

質問、感想などございましたら、是非教えてくださいまし。

その際の連絡はコメント欄、またはこちらまで。
hollowcradle_hc◇gmail.com

何かしらのお悩みやご要望なども同様に送ってきてくださいな。

時間的な都合で個別にお返事することは難しいと思いますが、全部目を通しますし、記事に出来ることは記事にしていきます。

何より嬉しいので記事を書くモチベが上がります。


それと「面白かったよ」とか「ためになった」って場合は、TwitterやFacebookなどで共有してもらえるとありがたいです。

僕の感謝にいか程の価値があるかは存じ上げませんが、とてつもなく感謝いたします。


気が向いた時にでもぜひ。


もしこのブログの更新情報をお求めの場合。

その際はブログの下の方にあるフォームから登録していただければ、ブログ更新時にメールが届くようになりますので、こちらも宜しければどうぞ。


一応ですけど、登録したからといって、関係の無い変なメールが届くことはありませんのでご安心を。笑

コメント