距離が変われば価値も変わる

お山のおみやげ。
苔やら岩石やらを撮って数百KBまでリサイズしてみたもの。
全部で28枚詰め合わせております故、気に入ったものがあれば使ってみてくだされ。

・テクスチャ用画像2「苔・岩石類」
https://hollowcradle.booth.pm/items/1138678

いつものように画質はあまり良くはありませぬが、切り取るなり何なりすれば何かしらに使えるでしょう。
たぶん。


最近自分でテクスチャを作るようになってGIMPの使い方を覚えた。
覚えたっていっても、トリミングしたり、リサイズしたり、ちょっとしたレタッチしたりとかそれぐらいだけど。

それでも出来ることは相当増えた感覚。
ちょっと気に入らないものでも、(いじっていいものは)自分でいじれるようになったし、そもそも自分の好きなものをテクスチャとして生み出せる。

これは学習の結果だね。


何かを学ぶ時、現在の自分に全く価値の無いものであれば、学ぶ気が起きにくいってのはあると思う。

例えば、それさえできれば向こう十年くらいは食い扶持に困らないと客観的に評価されたものがあったとしても、今の自分が価値を感じないのならば学ぼうとは思わない。

人って、"実感として"価値を感じないことをやるのは苦痛(ストレス)だから。
それが理性的に価値を理解できるものであっても、実際に理性が価値を感じていてもそう。

本能部分まで価値を感じない限りは、心のストレスを超えるほどの自発性は生まれにくい。


でも、今の自分が価値を実感として理解でき、現実として「欲しい」と求めるようになったとき、その苦痛は消え、自然と学ぼうと思える。

僕みたいに理性が強くない人は、その自然な流れを作ることが大事。

理性と本能のどちらも価値を感じるように、自分を広げて(ずらして)いく。
それが実感として身近に思える距離に来るまで。
そうすると、学習に対する苦痛は無くなる。

だって、「"理性的"に必要」「"本能的"に欲しい」ものだから。
すぐ目の前にある価値を得ようとして、"結果的に"その術を修得する。


人は人間である以前にヒトだから。
動物としての自分の上に理性とかいう後付けの機能を載せたものだから。
理性的な部分と、本能的な部分。
そのどちらも納得出来るものであれば、自然体でやれてしまう。
でも、どちらかが嘘をついていると、仲違いして自分を引っ張りあってしまう。

だから、新しく何かを学ぶこと、新しい何かに挑戦しようとして動けない場合は、理性と本能の2人の自分でお話し合いしてみるといいんじゃないかな、と。

ふとそんなことを思ったのでした。


おしまひ。

コメント