人の可能性が等しくないワケ

時代が変わることで、言葉の意味は変わる。
ものによってはニュアンスだけではなく、本来の意味とは真逆の意味で使われてしまうことも。
それに危機感を抱いて「誤用は悪だ!!正しい言葉を!!」と訴えたところで、常識や知識は多数派に塗り替えられていくもの。
誤用される言葉を本来の意味で使おうとしても、多くの人がそれを知った上で実際に使わなければ無理なお話です。
一人ひとりが「いや、その言葉はね・・・」と言ったところで、相手にしてみればそれを理解した上で自分も誰かにそれを伝えなければいけないのですから、それは面倒臭さしかない。
いま互いに伝わっている言葉をわざわざ変える必要が何処にあるのか。
そうすると、間違いと知っていても「そうやって使われているんだから・・・」と誤った方で使い続けるしかなくなってしまいます。

きっと言葉はそうやって変化し、そして今に至るのでしょう。
実際、故人達の遺した言葉は現代の文脈で解釈しようとするとわけがわからない、ということなど珍しくもありませんし。
どれだけ偉大な発見であっても、時代を経ればその人が書いたことが伝わらなくなってしまうなんて、「どんまい」というかなんというか。
もちろん、現代も未来からすれば過去なので、我々も例外ではないのですけれど。


よくわからないお話から始まりましたが、どうも糸凪邑でございます。

最近、意識して言葉を使うようになりました。
とはいえ、学術的に厳密なものを学んだわけではないので、自分の出来る範囲で"多少"気を使っているという程度ですが。

で、その中でもこれは気を付けるべきだな、と思っている言葉があります。

それは「みる」という言葉、もうちょい言えば「視る」「観る」という2つの言葉です。
一般的に、「みる」は「見る」とあてられることが多いですが、実際には同じ"みる"という音でも「観る」、「視る」、「診る」、「看る」など、色んなものがあります。
「診る」と「看る」は意味がそもそも別物ですから「見る」をあてられることはほとんどありませんが、「観る」と「視る」は区別せずに「見る」となることが多いです。
僕も数年前まではあまり気にしなかったんですが、ふと思うところあってその2つを意識して使い分けるようにしました。

"思うところ"っていうのは「言葉の使い方で物事の捉え方がだいぶ変わってしまうんじゃないかな?」という疑問です。
特にこの2つに関しては、差を理解して自分の常識に出来ているかどうかで、人生を左右しうる
そういう感覚があります。

「人生とか、何を大げさな・・・」って思われるかもしれませんが、たぶんそれほどまでにこの2つの言葉の差は大きい。
厳密に言えば、後者の「観る」という言葉を理解して意識できているかが要点。

んじゃ、そもそもこの2つの差は何か?ってことなのですが、とりあえずこれをご覧ください。





真っ黒い画像ですね。

これについてどんなことを語れますか?

黒い色?

それで終わりですか?

では、"黒"という情報から、何を語れますか?

「黒は黒だろ」で終わる人がほとんどかもしれませんね。

でも、人によってはそれ以外のことを語れます。
例えば黒という色の持つ科学的な性質であったり、色彩学的な心理効果であったり、ファッションにおける黒の使い方、各宗教における黒の意味、自然界に存在する黒いものについて、黒い食べ物について、黒色の作り方、RGBのパラメータ、etc...

こんなふうに。

「黒は黒」としか語れない人と、それ以上の多くを語れる人では、「観えている世界」がまるっきり違います。

例えば、山の中に転がる石を視て、そこら辺に転がる石ころの1つにしか観えない人がいれば、ダイヤモンドより高価な石だということが観える人もいるように。
そこら辺に生える雑草を視て、食用の山菜として重宝されているということが観える人がいれば、ただの草にしか観えない人もいるように。

そして観える世界が違うっていうことは、選択肢の数が異なるってことです。

上の例だと、前者の人にとっては1円にもならないけれど、後者の人にとっては使いみちによって大金になり得ますよね。
下の例だと、仮に両者が飢えに苦しんでいたとすれば、前者の人は悠々と飢餓を脱することができますが、後者の人は飢え死にするか一か八かの賭けで食べるしかありません。

単純な例を出しても「観える」か否かというのはこれだけの差を産むわけです。

同じものを「視」ても、違うものが「観」える

観えるものが異なれば、観える世界が異なってきますからね。
そして、観える世界が異なれば選択肢に差がでてくる。
選択肢が異なるっていうことは、人生に差が出てきます。
しかも間接的にではなく直接的に。

また、観え方っていうのは自分の価値観の幅でもありますから、その幅が広がれば広がるほど他人と理解し合えるし、価値のやり取りができるんです。
価値のやり取りっていうのは輪の中で生きていく上で欠かせない要素ですからね。
そういう点でも影響してくるわけです。

「視る」と「観る」の差を理解しているかどうかが人生を左右するっていうのはこういうことです。



今回の要点を端的に言い換えると、
「視る」は物理的に目で捉えること
「観る」は捉えた情報を切り取ること
という感じ。
(※ただし「観る」の情報元は視覚に限らない)

あるいは、
知らなくても「視る」ことは出来るけど、
知らないと「観る」ことは出来ない
という方がいいかもしれません。
(※この場合の「知る」はたぶん「識る」ですね)

こういう感じで捉えていただければ。


「視る」と「観る」の違いは以上です。
だいぶ抽象的でふわっとなってしまいましたね。
今回の内容は僕の力量不足も相まって他人に説明し辛いものです。
正直、中身の10%でも伝わっていれば御の字というレベル。

でも、大事なことであるのは間違いないです。
それだけは確信を持って言えます。

なので、もしこれを読んで何か掴めたことがあれば、自分なりに解釈しなおしてみてください。
自分の言葉で説明できるように。
そんでもって、観えるものを増やすことを意識して物事に触れてください。
そうすればどんどん自分の世界は広がって、もっと良い選択肢が生まれますから。



今回はこんな感じで。
ではまた次回。





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