水面に漂うは静寂か


当たり前のことだけど 僕らも大人になって
誰かの親にもなって やがて土になろう
そして小さくとも 花を咲かせられたら
やっと誰かの涙止めて

[SOPHIA - Thank You]





どうも。糸凪邑です。

今年の冬は暖かさが続き、そのまましれっと春に移り変わるものだと心の奥底で信じておりましたが、現実は非情でした。

寒いです。

手がかじかんでキーを叩きにくい。

いつになったら常春の世界が訪れるのか。

誰に願えば届くんだい。



名も無き墓標は誰のもの?


昨今、人の「死」をどう扱うかが問題として取り挙げられることが増えてきたようです。

この世を去った人をどう葬るか。

日本で一般的なのは「墓」を作ることでしょうか。

しかし、その墓を遺族が管理することが少なくなり、放置されるようになっている。

ようは墓を継いでいかなくなっているらしい、と。

理由はそれぞれでしょうが、近代化に伴い、人の宗教観が薄れていっている現状で、わざわざ労力や金銭を払って維持しようという気持ちが無いのかもしれません。

また、海外では埋葬する土地が足りなくなることが問題視されているそうです。

この問題に関しては日本でも同様なのかもしれませんね。

社会の中で人が死んだ時、自然に還るのではなく、何らかの形として遺ることになりますから、そうなるのは必然と言えます。

それが良いか悪いかを問いたいわけではありませんが、我々は昨今の信仰を失う時代に生きる者として考えておく必要があるのではないかな、と。

もし自分が死んだとき、どうしたいか。

自分の死の形を。

僕個人としては、あくまで個人的な願望ではありますが、墓に入るよりは土葬でもしてくれればいいな、と思ってます。

理由は上に挙げた、墓の継続問題。

自分が家の墓を継ぐこと自体は別に構いませんが、自分が死んで墓に入った時、自分の子供に継げというのはどうだろうという気がするんですよね。

そういう風に育てることはきっと可能なのだろうけれど、それは価値あることなのか。

そもそも僕は仏教的な価値観が薄いので、切に墓へ入りたいという願望は薄い・・・というか無いです。

これは責任放棄と言われるかもしれません。

自分の価値観で一族が眠る場所を潰すのはどうなのか、と。

でも、それを継ぐことを無言の圧力として後の代の人間に遺すのもどうなのか。

当人にとっては、自分の命の扱いを考えた結果の決断かもしれませんが、子孫にそれを押し付けるのは、語弊を恐れずに言えば、自分勝手とさえ感じる。

それに、命は循環する方が自然じゃないかなー、という感覚があるので、どうせならただの動物として自然に還してくれればいいと思うんですよ。

ただ、土葬も土葬で土地の問題があるわけで。

どうすべきか・・・。

そんなことを考えていると、こういう話が出てきました。


『死を民主化せよ:コロンビア大学院建築学部「デスラボ」の挑戦』
http://wired.jp/2014/12/28/deathlab-vol14/

『土に還り、樹木の養分となる。遺体をカプセルに入れ木の下に埋める。人間埋葬の新しい形、「追憶の森カプセル」の提案(イタリア)』
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52186206.html


記事を見てもらえればわかりますが、まぁまぁ賛否両論あるだろうと思います。

これを主流のものとするためには、一般的に伝わっているであろう宗教観を無いものとして考えなければなりませんし。

というか、そもそもこれ自体が無宗教の人を対象としたものなのか。

ただ、僕的にはいたって自然なものな気がするんですよね。

生物学的に考えれば、命あるものは全て食物連鎖の中で循環しています。

食べて食べられて、死んだら土に還り草木となり・・・。

そう考えると、自然を食らって、生まれて、死んで、大地に還ることなく、社会の枠の内に留まっている今の宗教的な形式の方に違和感を感じます。

もちろん、先程も言ったように、それが良いか悪いかということを論じたいわけではないですよ。

優劣に関してではなく、人間とその他の生き物というのはあまりにも異なっていますからね。

でも、本質的には人間も生物であることには変わりないわけで。

そう考えると、嫌々墓を継がせるよりは、自分が木にでもなって命の循環に加わることができるのであれば、そっちの方が個人的にはありがたい。

僕の感覚としてはドナーになるのとあまり変わらないですね。

後世に重責を遺すよりは、潔いんじゃないかな、と。

まぁ、これはあくまで僕個人の考えなんで、「みんなそうすべきだよ!」というものではありません。

人によってはやはり墓に入りたいと思うでしょうし、それも一つの選択です。

存在証明という見方であれば、少なからずその気持ちは理解できますし。

ただ、自分の選択が誰にどういった影響を与えるのか、それを踏まえて世を去ることを考えておくのは、自分のためにも有意義なことだと思うんですよ。

墓に入るもよし、大地に還るもよし、灯りになるもよし。

生まれ方を自分の意志で選べないのであれば、死ぬ時くらいは好きにしようじゃないですか。