"大衆とは善きにつけ悪しきにつけ、特別な理由から自分に価値を見いだすことなく、自分を「すべての人」と同じだと感じ、しかもそのことに苦痛を感じないで、自分が他人と同じことに喜びを感じるすべての人びとのことである。"
―――「オルテガ - 大衆の反逆」―――
こんばんは。
糸凪邑です。
時間が経つのは早いもので、去年の今頃の出来事をつい昨日のことのように思い出します。
年は取りたくないものだ、と僕の年齢で言うと怒られそうなのですが、他に適切な表現が思いつかないもので、使っておきましょう。
あゝ、年は取りたくないものだ。
さて、先日興味深い経験をしたので、今回はそのことについてお話してみようかと思います。
お題は「ファッションと個性」。
"個性とは何か?"
"どうやったら雰囲気のある人になるのか?"
"張り切っちゃう人ほど、やらかすのは何故か?"
といった事柄に興味がおありの方々にとっては、割と面白いんじゃないかなー、と。
色々と文章を書いていて、ようやくそれっぽいテーマのような気がしますが、本題に入る前に、ここで正直な告白を一つ。
実は、アクセサリを作って売っている身としては情けないことに、僕はこの手の分野にはそう明るくないです。
ファッションのカテゴリは幾つか挙げることはできるけれど、それがどんなものかと問われてもわかりません。
とりあえず、カジュアルとかストリートとかの区別は無理です。
というか、カテゴライズという行為に興味が無いので、覚えようとしたこともないです。
何となく「カテゴリが違うなー」くらいの感覚。
流行りに関しても、テレビや雑誌を殆ど見ないのでさっぱりです。
例えば、以前クロックスが流行り始めた時、
"小学校の時、ああいうスリッパ履いてトイレ掃除してたなー"
という感想を友人に伝えたら爆笑されました。そりゃもう盛大に。
流行りに対する認識はそんなもんです。
今思えば、中高生の時の方が頑張ってた気がしますね。
グランジが流行っていた時に古着屋でわざとダメージの大きなジーンズを買ってみたり、手持ちのものをほつれさせたり。
安いカットソーを買ってきてUネックにしたり、袖や裾に穴を開けてボロボロに加工してみたこともありました。
今となってはデニムを一切履かなくなりましたし、そもそも持ってないです。
あのカットソー群は何処へ行ったのか・・・。
そして書いている途中に思いましたけど、多分パンク(或いはロック?)とグランジがごっちゃになってますね。
ただ響きが格好良くて、適当に"グランジ=ぼろぼろの何か"とか思い込んでいたのでしょう。
今もグランジが何なのかわからないのでアレですが。
その頃を思うと、改めて
「何やってたんだろう」
というか
「何を目指していたんだろうか」
と心底不思議に思いますが、まぁそんな誰にでもありそうなブラックな過去は置いておいて。
それでも今は初めて会った人から"お洒落"だとか、"雰囲気がある"といった旨の印象は抱かれることがままあります。
最近面白かったのは、人形展の見学に、とあるギャラリーへ伺った時、受付のおば様に"作家さんですか?"と訊かれたりしたことですね(そのおば様によると作家っぽい格好をしていたというわけではなく、展示中の人形の一体と僕にどこか似ているところがあったらしく、「その作者さんかと思った」らしいです 笑)。
とはいっても、別に自慢というわけではないし、そもそも自分がお洒落なのかというとどうなのか。
少なくとも僕自身そう思ったことは無いですね。
自分の中では単に着たい服の中から似合いそうなものを選択して買って着ているだけですし。
それが"普通"ではなく、"お洒落"と評価されることがあったりするのは、おそらく「黒歴史」の生み出したバランス感覚かと。笑
ありがとう、もう一人のボク。
ちょっと長くなりましたが、僕のファッションに関してのスタンスはこういうものです。
自分で評価を下すのであれば、センスがある方ではなく、色々試した結果として、好きなものを着てそれなりの評価を得られるようになった、無難な奴といったところでしょう。
贔屓目に見てもそんな感じだと思います。
そこまでゴリゴリと力を入れているわけではないということですね。
アクセサリの製作も石が綺麗だと思ったから作ってみようと思っただけですし、その結果として自分が着けたいと思うようなものを作るようになって、何故か依頼されることが出てきた、と。
わりとゆるい気持ちでやっています。
でも、ですよ。
そんな自分でも、これはどうなのかなーと思うところはあるわけで。
それが今回の本題となります。
先日、知人の買い物に付き合って、住んでいるところから少し離れた、いわゆる都会と呼ばれる街を歩いていた時のこと。
その日、僕は買いたいものが特に無かったので、連れに従って、ひたすら店を見て回っていました。
昼食時に到着し、買い物を始めてから数時間。
時刻は夕方前。
普段はキーボードを叩くか、石とワイヤーを紡いでいるか、とにかく座りっぱなしなので、足腰が悲鳴をあげています。
そんな貧弱な身体の叫びを無視するため、周囲をぼんやりと眺めていました。
せっかく来たのだし、街を行く人のファッションでも見て参考にしようか、と。
普段そういうことが出来る機会はなかなか無いですしね。
しかし、観察を始めて一分もしない内に違和感を覚えました。
何かがおかしい。
別に変なところがあるわけではありません。
問題らしきものは何も無い。
けれど、それから何人もの人とすれ違って、「そうか」と思いました。
"違いがわからない"
さっきから印象に残る人が一切いないんですよ。
"年をとったから"とか、"ファッションに対する熱が無くなったから"とか、"記憶力がチンパン"だからとか色々考えましたが、どうも違う。
そもそも印象に残る人はその人を見た瞬間に何らかの"オーラ"みたいなものを感じます。
いや、僕は"オーラ"を見ることの出来る人ではないので、より正確に言えば"雰囲気"というのが近いですかね。
とにかく、そういう雰囲気を持った人が一人もいない。
都会と言われているところにいて、その日の内に何百人以上も見て、印象に残った人が一切いない。
それどころか、みんな同じに見える。
気付いた時はちょっとおもしろかったです。
これだけ多くの店があって、色んな所から―――それこそ県外からも多くの人が来ていて、何故こうも似るのか、と。
こういうことを僕が言っていいのかわからないですけど、見た感じで明らかに"ださい"というのはそういないんですよ。
たぶん流行りのものを着て、いかにも「お洒落してます」っていう感じはある(いくら流行りを知らないとはいえ、無駄に何時間も店を見て回ったわけではないですから、何となくわかります 笑)。
でも、似すぎてわからない。
誰も彼も違うものを着ているのに。
"これが「没個性」ってやつなのかー"
と、ようやく実感として理解しました。
着飾ることに興味がなければ別に気にならないんですけどね。
他の部分に時間や労力を割いているのでしょうし。
でも、お洒落をしようという感じがあるのに、楽しそうに服を選んでいるように見えるのに、どうして何も伝わってこないのか。
しばらく考えてみたんですが、これはおそらく"個性を求めていない"か"個性というものを勘違いしている"か、どちらかが原因なのではなかろうか、と。
前者であれば何となく理解は出来ます。
"お洒落に気を使っていますよー"
という姿勢そのものが目的とでも言えばいいでしょうか。
例えばそれがコミュニティに属するための条件である場合。
「身嗜み(みだしなみ)」というように、お洒落をするというのは一種のマナーです。
マナーはコミュニティを形成し、構成員が属する上で求められるものですから、普段の人間関係においても、そこで一定のレベルを満たさないと受け入れられないケースは存在します。
いわゆる、"お洒落な人はださいやつとは一緒にいないこと"、といえばわかりやすいかもしれません。
ようは同胞だと認められない、と。
そういった価値観が存在する場合は、その場にふさわしいだけのスキルがなければ浮いてしまいます。
というか、そもそもコミュニティに入れるかどうか怪しい。
ただし、その技術が洗練されていることが求められるのは、社交界のような特殊な場合を除けば、そうそうありません。
日常生活を支障なく過ごすだけでよいのであれば、少なくともある程度の"無難さ"があればいいわけです。
言い方はアレですがね。
共感は出来ないけれど、理解は出来ます。
問題でしかないですけどね。
確たる自己が無いまま「頑張ったよー、仲間だよー、遊ぼー」といったところで、それは替えの効く「1」でしかありませんし。
それを満たしていれば誰でもいいわけです。
もし仮に、他を魅了する"個"がいた場合、どうなるのか。
それ自体が目的なのではなく、あくまで目的を達成するために必要な条件であることを念頭に入れておかなければ、席は回ってこないでしょう。
で、もう1つ。
「没個性」の原因が"個性というものを勘違いしている"場合。
これを考えるためには、そもそも個性とは何か?を定義しなければなりません。
まず、"個性"という言葉は本来、"他者と異なった個人の性質"を意味します。
つまりは、"個"が有する性質であるということ。
それを踏まえると、世間一般に謳われる、いわゆる「個性派ファッション」という言葉が意味のわからないことを言っていることがご理解いただけるかと思われます。
よく使われる、"○○さん提案の「個性派ファッション」"なんてのは、それを模倣した時点で個性的ではないということです。
もちろん、その文脈における"個性"という言葉が、"普通とは異なる性質"という意味でのみ採用されているのであれば間違いではないですが、この場合、良い意味であるとは限らないですよね。
"普通じゃない"ことがすなわち"優れている"とは言えませんから。
流石にそんなものを求める猛者はそうそういないと思います。
ともあれ、他人の個性を真似しても個性を身につけることはできません。
個性はあくまで個に備わったものだからです。
上の"○○さん提案〜"というものは、あくまでその人が考えて行う場合に個性となるのであって、上っ面だけ真似ても個性を纏うことは出来ません。
ただの劣化コピーです。
よく憧れのアーティストの格好を真似ようとする人がいますが、大抵失敗してますよね。
着ている服のブランドをネットで調べて、SNSなんかで誰かに訊いてみたりして。
「全身揃えたよ!!」
なんて。
でも、それでその人と同じ個性を纏えるかというと、まぁあり得ないわけです。
時として筆舌に尽くしがたいほど滑稽であったりする。
何度も言うように、その個性はそのスタイルを考えた人のものです。
アーティスト本人かもしれないし、専属の誰かかもしれませんが、それを考えた人に備わっているものが個性です。
個性という単語が本来持つものだけを考えても、可笑しなことをやっているわけです。
まぁ可笑しいといっても笑えないんですけどね。
何故流行りモノで着飾って、誰かに提案された格好を真似て、"個性的"といえるのか。
何故それに違和感を抱かないのか。
そもそもの前提について考えたほうがいいんじゃないかな、と思いますが、とりあえず言葉の意味としての"個性"はそういうものです。
で、"言葉としての"という言い方をしたように、ファッションにおける"個性"の意味ってのもあります。
これは、あくまで僕個人がお洒落な人や雰囲気のある人を観察して得た見解なのですが、それは
"自分の理想とする姿を対外的に表現したもの"
です。
字面だけ見れば、当たり前のことを言っているだけなんで、何となくご理解いただけるかもしれません。
僕の個人的なスタンスとして、「人には自覚しているか否かに関わらず、各々の理想とするものを持っている」というものがあります。
"こうあって欲しい"
"こうなりたい"
といった願望ですね。
自分にとっての理想の世界と言い換えてもいいかもしれない。
それを対外的に表すものとしての形式の一つが、"自己表現としてのファッション"であり、"ファッションにおける個性"だと思います。
「理想なんてそんなもん持ってねーよ」という人は、おそらく自覚していないだけです。
理想には"自分で考えて創り上げるもの"と、"他に見出すもの"の2つがあります。
前者はそのままの意味なので説明を省きますが、後者も殆どの人は知っているはずです。
今まで、こんな経験ありませんか?
何かを見て、何故か心が強く惹きつけられたことは?
風景写真でも、絵画でも、音楽でも、もちろん人間でもいいです。
触れた瞬間、直感的にそれを求めたことはありませんか?
「これだ!!」
と思う感覚。
それが、理想を見出した瞬間です。
つまるところ、理想というのは、他者と共通する部分もあるということになります。
もちろん、完全に重なることは無いです。
理想像というのは当人の経験に依存しますからね。
で、ですよ。
これを踏まえると、理想を自分の中に築き上げる、つまり個性を自分の中に築き上げるためには、"他人"から取り入れてもいいということになります。
これは、さっき言ったことと矛盾するかもしれませんが、違います。
上の方で言ったのは、「表面的に模倣すること」です。
ここで必要なのは、そこにあるものの内、何に理想を見出したのかを分析し、「対象の背景にある理想像の断片を自覚すること」です。
憧れのアーティストの模倣が上手くいかないことの大きな原因はここにあるわけです。
そもそも、憧れる人間はそのアーティストが"自らのフィルターを通して表現したもの"に惹かれているけれど、アーティスト自身は"自分の表現したい世界"を観ているのだから、食い違うのは当然といえば当然ですよね。
だから、ここまで言っておいて、誰かを単純に模倣したい等と考える人はいないとは思いますが、あくまで模倣したいのであれば、何故対象がそうなるに至ったか、その背後にあるもの、その人が観ているものに焦点を充てて考えてみれば多少はうまくいくかもしれません。
個人的には労力と結果が吊り合っていない予感しか無いのでおすすめはできませんがね。
ともあれ、個性は、自分以外の何かに理想を見出すことでも身に着けられます。
自分が強く惹かれる対象の背後にある何か。
自分を惹きつけるもの。
それを見極め、自分の中に取り入れることで、個性の欠片を獲得することはできます。
実際は"理想の構築"というより、"理想の自覚"といったほうが正しいかもしれません。
何かに触れて、それを引き金にして自分の中にあるそれらに気付くことが多いですからね。
よく"色んなことを学べ"と言われていますが、その意味がこれです。
ようは多くを学び、理想とするものを発見し、自分の中に自覚として積み重ねる、ということです。
それが出来れば、あとはそれを纏うだけ。
やること自体は、理想を作り上げ、それを表現するだけなのでシンプルですね。
ただ、それをするにあたり、個人的にここが大事なのではなかろうか、というところが2つあります。
まず1つ目は、いくら自分の理想を身につけたところで、評価が得られるかどうかは別問題である、ということです。
当然といえば当然なのですが、その理想像を理想と感じているのはその人自身です。
さっき少し言いましたが、理想像というのは各々が積み重ねてきた経験に依存します。
つまり、その部分を共有できる人間でなければ、評価されえない。
まず、"自分が何を求めて表現するのか?"を問う必要があるのではなかろうか、と。
おそらくですが、個性的でありたい人の殆どは他者からの評価を得たいと考えていると思うんですよ。
「素敵だね」とか「雰囲気あるね」とか。
何らかの願望があるのではないでしょうか。
もちろん、個性の獲得と、それを表現するという行為自体に楽しさを感じ、それだけで満足しているのであれば問題はないです。
常人には理解できないピカソばりの斬新さがあっても、十世紀ほど超未来を先取りしていようとね。
ただ、もし少しでも他者からの評価を期待しているのであれば、表現の方法を考えたほうがいいんじゃないかな、と。
厳密に言えば、客観的に理解できる部分を含ませていった方がいいのではないか、と。
自分が誰かに魅了されるように。
共感できる部分が無ければならない。
誰かに伝えるためには、その人と自分の間に共通の言語で伝えることが必要になります。
これは別に日本語を話せとか言っているわけではないですよ?
前にコミュニケーションについて書いたのですが、そこで言った"共通の世界"にあるものです。
それを使わなければ、欠片も共感してもらえない。
子供の落書きにしか見えない現代アートが一般人の感動を誘わないように。
勘違いしないように言っておきますが、これは個性を消せと言っているわけではありません。
一人よがりであるな、ということです。
背広にスパッツを合わせたところで、芸人かと思われるだけでしょう。
ギャグマンガ日和で見た記憶がありますが。
大事なのはバランス感覚を持つこと。
これが1つ目です。
そして2つ目。
これはあえて言うまでもないことなのですが、自分を知り、自分に合ったものを身に着けるということです。
髭面マッチョな顔の男性に大量のフリルが盛られたスカートは常識的に考えると似合いませんよね。
そういうことです。
街を行く人を見てると、その顔で、或いはその体型でその格好は・・・という人は結構いるでしょう。
好きなように着飾れたらいいと思っているのであれば構わないと思うんですけどね。
着飾ることで評価されたいのであれば、客観的に自分の特徴を分析し、自分に合ったもの、馴染むもの、調和を乱さないことを意識するだけでもだいぶ変わるのに。
全身ハイブランドで纏っていても、そこを全く考えてない人はださいですし、時として滑稽に見える程なのに、ちゃんと自分を理解して、考えている人はどんなに安い服を着ていてもお洒落なんですよ。
それは自分を含めた全体の調和をとっているからです。
いうなれば、身に着けるべきものを身に着けている。
"馴染む"という言葉がしっくりくるかもしれません。
自分を知っている人であるからこそ、そんな印象を纏うことができるのです。
個性というものの本来の意味を勘違いしないこと。
そして、表現の目的とバランス。
自分を知り、客観的に判断すること。
ここらへんを理解していない、あるいは考えてすらいないことが、街人Aを街人Aたらしめているものなのでしょう。
さて、予定より長くなってしまいましたが、今回はこの辺で。
もしあなたの周りにここで言ったような人がいて、"惜しい"と思えるのであれば、こういう考え方を提案してみてはいかがでしょうか。
少なくとも「やらかす」ことは少なくなるんじゃないかな、と思いますよ。
では、また何れ。
―――「オルテガ - 大衆の反逆」―――
こんばんは。
糸凪邑です。
時間が経つのは早いもので、去年の今頃の出来事をつい昨日のことのように思い出します。
年は取りたくないものだ、と僕の年齢で言うと怒られそうなのですが、他に適切な表現が思いつかないもので、使っておきましょう。
あゝ、年は取りたくないものだ。
さて、先日興味深い経験をしたので、今回はそのことについてお話してみようかと思います。
お題は「ファッションと個性」。
"個性とは何か?"
"どうやったら雰囲気のある人になるのか?"
"張り切っちゃう人ほど、やらかすのは何故か?"
といった事柄に興味がおありの方々にとっては、割と面白いんじゃないかなー、と。
色々と文章を書いていて、ようやくそれっぽいテーマのような気がしますが、本題に入る前に、ここで正直な告白を一つ。
実は、アクセサリを作って売っている身としては情けないことに、僕はこの手の分野にはそう明るくないです。
ファッションのカテゴリは幾つか挙げることはできるけれど、それがどんなものかと問われてもわかりません。
とりあえず、カジュアルとかストリートとかの区別は無理です。
というか、カテゴライズという行為に興味が無いので、覚えようとしたこともないです。
何となく「カテゴリが違うなー」くらいの感覚。
流行りに関しても、テレビや雑誌を殆ど見ないのでさっぱりです。
例えば、以前クロックスが流行り始めた時、
"小学校の時、ああいうスリッパ履いてトイレ掃除してたなー"
という感想を友人に伝えたら爆笑されました。そりゃもう盛大に。
流行りに対する認識はそんなもんです。
今思えば、中高生の時の方が頑張ってた気がしますね。
グランジが流行っていた時に古着屋でわざとダメージの大きなジーンズを買ってみたり、手持ちのものをほつれさせたり。
安いカットソーを買ってきてUネックにしたり、袖や裾に穴を開けてボロボロに加工してみたこともありました。
今となってはデニムを一切履かなくなりましたし、そもそも持ってないです。
あのカットソー群は何処へ行ったのか・・・。
そして書いている途中に思いましたけど、多分パンク(或いはロック?)とグランジがごっちゃになってますね。
ただ響きが格好良くて、適当に"グランジ=ぼろぼろの何か"とか思い込んでいたのでしょう。
今もグランジが何なのかわからないのでアレですが。
その頃を思うと、改めて
「何やってたんだろう」
というか
「何を目指していたんだろうか」
と心底不思議に思いますが、まぁそんな誰にでもありそうなブラックな過去は置いておいて。
それでも今は初めて会った人から"お洒落"だとか、"雰囲気がある"といった旨の印象は抱かれることがままあります。
最近面白かったのは、人形展の見学に、とあるギャラリーへ伺った時、受付のおば様に"作家さんですか?"と訊かれたりしたことですね(そのおば様によると作家っぽい格好をしていたというわけではなく、展示中の人形の一体と僕にどこか似ているところがあったらしく、「その作者さんかと思った」らしいです 笑)。
とはいっても、別に自慢というわけではないし、そもそも自分がお洒落なのかというとどうなのか。
少なくとも僕自身そう思ったことは無いですね。
自分の中では単に着たい服の中から似合いそうなものを選択して買って着ているだけですし。
それが"普通"ではなく、"お洒落"と評価されることがあったりするのは、おそらく「黒歴史」の生み出したバランス感覚かと。笑
ありがとう、もう一人のボク。
ちょっと長くなりましたが、僕のファッションに関してのスタンスはこういうものです。
自分で評価を下すのであれば、センスがある方ではなく、色々試した結果として、好きなものを着てそれなりの評価を得られるようになった、無難な奴といったところでしょう。
贔屓目に見てもそんな感じだと思います。
そこまでゴリゴリと力を入れているわけではないということですね。
アクセサリの製作も石が綺麗だと思ったから作ってみようと思っただけですし、その結果として自分が着けたいと思うようなものを作るようになって、何故か依頼されることが出てきた、と。
わりとゆるい気持ちでやっています。
でも、ですよ。
そんな自分でも、これはどうなのかなーと思うところはあるわけで。
それが今回の本題となります。
先日、知人の買い物に付き合って、住んでいるところから少し離れた、いわゆる都会と呼ばれる街を歩いていた時のこと。
その日、僕は買いたいものが特に無かったので、連れに従って、ひたすら店を見て回っていました。
昼食時に到着し、買い物を始めてから数時間。
時刻は夕方前。
普段はキーボードを叩くか、石とワイヤーを紡いでいるか、とにかく座りっぱなしなので、足腰が悲鳴をあげています。
そんな貧弱な身体の叫びを無視するため、周囲をぼんやりと眺めていました。
せっかく来たのだし、街を行く人のファッションでも見て参考にしようか、と。
普段そういうことが出来る機会はなかなか無いですしね。
しかし、観察を始めて一分もしない内に違和感を覚えました。
何かがおかしい。
別に変なところがあるわけではありません。
問題らしきものは何も無い。
けれど、それから何人もの人とすれ違って、「そうか」と思いました。
"違いがわからない"
さっきから印象に残る人が一切いないんですよ。
"年をとったから"とか、"ファッションに対する熱が無くなったから"とか、"記憶力がチンパン"だからとか色々考えましたが、どうも違う。
そもそも印象に残る人はその人を見た瞬間に何らかの"オーラ"みたいなものを感じます。
いや、僕は"オーラ"を見ることの出来る人ではないので、より正確に言えば"雰囲気"というのが近いですかね。
とにかく、そういう雰囲気を持った人が一人もいない。
都会と言われているところにいて、その日の内に何百人以上も見て、印象に残った人が一切いない。
それどころか、みんな同じに見える。
気付いた時はちょっとおもしろかったです。
これだけ多くの店があって、色んな所から―――それこそ県外からも多くの人が来ていて、何故こうも似るのか、と。
こういうことを僕が言っていいのかわからないですけど、見た感じで明らかに"ださい"というのはそういないんですよ。
たぶん流行りのものを着て、いかにも「お洒落してます」っていう感じはある(いくら流行りを知らないとはいえ、無駄に何時間も店を見て回ったわけではないですから、何となくわかります 笑)。
でも、似すぎてわからない。
誰も彼も違うものを着ているのに。
"これが「没個性」ってやつなのかー"
と、ようやく実感として理解しました。
着飾ることに興味がなければ別に気にならないんですけどね。
他の部分に時間や労力を割いているのでしょうし。
でも、お洒落をしようという感じがあるのに、楽しそうに服を選んでいるように見えるのに、どうして何も伝わってこないのか。
しばらく考えてみたんですが、これはおそらく"個性を求めていない"か"個性というものを勘違いしている"か、どちらかが原因なのではなかろうか、と。
前者であれば何となく理解は出来ます。
"お洒落に気を使っていますよー"
という姿勢そのものが目的とでも言えばいいでしょうか。
例えばそれがコミュニティに属するための条件である場合。
「身嗜み(みだしなみ)」というように、お洒落をするというのは一種のマナーです。
マナーはコミュニティを形成し、構成員が属する上で求められるものですから、普段の人間関係においても、そこで一定のレベルを満たさないと受け入れられないケースは存在します。
いわゆる、"お洒落な人はださいやつとは一緒にいないこと"、といえばわかりやすいかもしれません。
ようは同胞だと認められない、と。
そういった価値観が存在する場合は、その場にふさわしいだけのスキルがなければ浮いてしまいます。
というか、そもそもコミュニティに入れるかどうか怪しい。
ただし、その技術が洗練されていることが求められるのは、社交界のような特殊な場合を除けば、そうそうありません。
日常生活を支障なく過ごすだけでよいのであれば、少なくともある程度の"無難さ"があればいいわけです。
言い方はアレですがね。
共感は出来ないけれど、理解は出来ます。
問題でしかないですけどね。
確たる自己が無いまま「頑張ったよー、仲間だよー、遊ぼー」といったところで、それは替えの効く「1」でしかありませんし。
それを満たしていれば誰でもいいわけです。
もし仮に、他を魅了する"個"がいた場合、どうなるのか。
それ自体が目的なのではなく、あくまで目的を達成するために必要な条件であることを念頭に入れておかなければ、席は回ってこないでしょう。
で、もう1つ。
「没個性」の原因が"個性というものを勘違いしている"場合。
これを考えるためには、そもそも個性とは何か?を定義しなければなりません。
まず、"個性"という言葉は本来、"他者と異なった個人の性質"を意味します。
つまりは、"個"が有する性質であるということ。
それを踏まえると、世間一般に謳われる、いわゆる「個性派ファッション」という言葉が意味のわからないことを言っていることがご理解いただけるかと思われます。
よく使われる、"○○さん提案の「個性派ファッション」"なんてのは、それを模倣した時点で個性的ではないということです。
もちろん、その文脈における"個性"という言葉が、"普通とは異なる性質"という意味でのみ採用されているのであれば間違いではないですが、この場合、良い意味であるとは限らないですよね。
"普通じゃない"ことがすなわち"優れている"とは言えませんから。
流石にそんなものを求める猛者はそうそういないと思います。
ともあれ、他人の個性を真似しても個性を身につけることはできません。
個性はあくまで個に備わったものだからです。
上の"○○さん提案〜"というものは、あくまでその人が考えて行う場合に個性となるのであって、上っ面だけ真似ても個性を纏うことは出来ません。
ただの劣化コピーです。
よく憧れのアーティストの格好を真似ようとする人がいますが、大抵失敗してますよね。
着ている服のブランドをネットで調べて、SNSなんかで誰かに訊いてみたりして。
「全身揃えたよ!!」
なんて。
でも、それでその人と同じ個性を纏えるかというと、まぁあり得ないわけです。
時として筆舌に尽くしがたいほど滑稽であったりする。
何度も言うように、その個性はそのスタイルを考えた人のものです。
アーティスト本人かもしれないし、専属の誰かかもしれませんが、それを考えた人に備わっているものが個性です。
個性という単語が本来持つものだけを考えても、可笑しなことをやっているわけです。
まぁ可笑しいといっても笑えないんですけどね。
何故流行りモノで着飾って、誰かに提案された格好を真似て、"個性的"といえるのか。
何故それに違和感を抱かないのか。
そもそもの前提について考えたほうがいいんじゃないかな、と思いますが、とりあえず言葉の意味としての"個性"はそういうものです。
で、"言葉としての"という言い方をしたように、ファッションにおける"個性"の意味ってのもあります。
これは、あくまで僕個人がお洒落な人や雰囲気のある人を観察して得た見解なのですが、それは
"自分の理想とする姿を対外的に表現したもの"
です。
字面だけ見れば、当たり前のことを言っているだけなんで、何となくご理解いただけるかもしれません。
僕の個人的なスタンスとして、「人には自覚しているか否かに関わらず、各々の理想とするものを持っている」というものがあります。
"こうあって欲しい"
"こうなりたい"
といった願望ですね。
自分にとっての理想の世界と言い換えてもいいかもしれない。
それを対外的に表すものとしての形式の一つが、"自己表現としてのファッション"であり、"ファッションにおける個性"だと思います。
「理想なんてそんなもん持ってねーよ」という人は、おそらく自覚していないだけです。
理想には"自分で考えて創り上げるもの"と、"他に見出すもの"の2つがあります。
前者はそのままの意味なので説明を省きますが、後者も殆どの人は知っているはずです。
今まで、こんな経験ありませんか?
何かを見て、何故か心が強く惹きつけられたことは?
風景写真でも、絵画でも、音楽でも、もちろん人間でもいいです。
触れた瞬間、直感的にそれを求めたことはありませんか?
「これだ!!」
と思う感覚。
それが、理想を見出した瞬間です。
つまるところ、理想というのは、他者と共通する部分もあるということになります。
もちろん、完全に重なることは無いです。
理想像というのは当人の経験に依存しますからね。
で、ですよ。
これを踏まえると、理想を自分の中に築き上げる、つまり個性を自分の中に築き上げるためには、"他人"から取り入れてもいいということになります。
これは、さっき言ったことと矛盾するかもしれませんが、違います。
上の方で言ったのは、「表面的に模倣すること」です。
ここで必要なのは、そこにあるものの内、何に理想を見出したのかを分析し、「対象の背景にある理想像の断片を自覚すること」です。
憧れのアーティストの模倣が上手くいかないことの大きな原因はここにあるわけです。
そもそも、憧れる人間はそのアーティストが"自らのフィルターを通して表現したもの"に惹かれているけれど、アーティスト自身は"自分の表現したい世界"を観ているのだから、食い違うのは当然といえば当然ですよね。
だから、ここまで言っておいて、誰かを単純に模倣したい等と考える人はいないとは思いますが、あくまで模倣したいのであれば、何故対象がそうなるに至ったか、その背後にあるもの、その人が観ているものに焦点を充てて考えてみれば多少はうまくいくかもしれません。
個人的には労力と結果が吊り合っていない予感しか無いのでおすすめはできませんがね。
ともあれ、個性は、自分以外の何かに理想を見出すことでも身に着けられます。
自分が強く惹かれる対象の背後にある何か。
自分を惹きつけるもの。
それを見極め、自分の中に取り入れることで、個性の欠片を獲得することはできます。
実際は"理想の構築"というより、"理想の自覚"といったほうが正しいかもしれません。
何かに触れて、それを引き金にして自分の中にあるそれらに気付くことが多いですからね。
よく"色んなことを学べ"と言われていますが、その意味がこれです。
ようは多くを学び、理想とするものを発見し、自分の中に自覚として積み重ねる、ということです。
それが出来れば、あとはそれを纏うだけ。
やること自体は、理想を作り上げ、それを表現するだけなのでシンプルですね。
ただ、それをするにあたり、個人的にここが大事なのではなかろうか、というところが2つあります。
まず1つ目は、いくら自分の理想を身につけたところで、評価が得られるかどうかは別問題である、ということです。
当然といえば当然なのですが、その理想像を理想と感じているのはその人自身です。
さっき少し言いましたが、理想像というのは各々が積み重ねてきた経験に依存します。
つまり、その部分を共有できる人間でなければ、評価されえない。
まず、"自分が何を求めて表現するのか?"を問う必要があるのではなかろうか、と。
おそらくですが、個性的でありたい人の殆どは他者からの評価を得たいと考えていると思うんですよ。
「素敵だね」とか「雰囲気あるね」とか。
何らかの願望があるのではないでしょうか。
もちろん、個性の獲得と、それを表現するという行為自体に楽しさを感じ、それだけで満足しているのであれば問題はないです。
常人には理解できないピカソばりの斬新さがあっても、十世紀ほど超未来を先取りしていようとね。
ただ、もし少しでも他者からの評価を期待しているのであれば、表現の方法を考えたほうがいいんじゃないかな、と。
厳密に言えば、客観的に理解できる部分を含ませていった方がいいのではないか、と。
自分が誰かに魅了されるように。
共感できる部分が無ければならない。
誰かに伝えるためには、その人と自分の間に共通の言語で伝えることが必要になります。
これは別に日本語を話せとか言っているわけではないですよ?
前にコミュニケーションについて書いたのですが、そこで言った"共通の世界"にあるものです。
それを使わなければ、欠片も共感してもらえない。
子供の落書きにしか見えない現代アートが一般人の感動を誘わないように。
勘違いしないように言っておきますが、これは個性を消せと言っているわけではありません。
一人よがりであるな、ということです。
背広にスパッツを合わせたところで、芸人かと思われるだけでしょう。
ギャグマンガ日和で見た記憶がありますが。
大事なのはバランス感覚を持つこと。
これが1つ目です。
そして2つ目。
これはあえて言うまでもないことなのですが、自分を知り、自分に合ったものを身に着けるということです。
髭面マッチョな顔の男性に大量のフリルが盛られたスカートは常識的に考えると似合いませんよね。
そういうことです。
街を行く人を見てると、その顔で、或いはその体型でその格好は・・・という人は結構いるでしょう。
好きなように着飾れたらいいと思っているのであれば構わないと思うんですけどね。
着飾ることで評価されたいのであれば、客観的に自分の特徴を分析し、自分に合ったもの、馴染むもの、調和を乱さないことを意識するだけでもだいぶ変わるのに。
全身ハイブランドで纏っていても、そこを全く考えてない人はださいですし、時として滑稽に見える程なのに、ちゃんと自分を理解して、考えている人はどんなに安い服を着ていてもお洒落なんですよ。
それは自分を含めた全体の調和をとっているからです。
いうなれば、身に着けるべきものを身に着けている。
"馴染む"という言葉がしっくりくるかもしれません。
自分を知っている人であるからこそ、そんな印象を纏うことができるのです。
個性というものの本来の意味を勘違いしないこと。
そして、表現の目的とバランス。
自分を知り、客観的に判断すること。
ここらへんを理解していない、あるいは考えてすらいないことが、街人Aを街人Aたらしめているものなのでしょう。
さて、予定より長くなってしまいましたが、今回はこの辺で。
もしあなたの周りにここで言ったような人がいて、"惜しい"と思えるのであれば、こういう考え方を提案してみてはいかがでしょうか。
少なくとも「やらかす」ことは少なくなるんじゃないかな、と思いますよ。
では、また何れ。