隣の席が無くなる日


お久しぶりです。

糸凪邑です。

いつものことですが、前回から割と間が空いてしまいましたね。

自分の腰は重い方だなと思いますが、近頃はそれを改善しようという気も起こりません。

「書きたいときに書くというのが私のスタンスなのだ」

とか言ってしまえば格好もつくのか。

まぁ、そんなことは置いておいて。



さて、

"世界中ではグローバル化により海外から優秀な人材の流入が起こり、職を失う人が増え〜"

という話を耳にするようになってどれくらい経ったのか。

実際に街を歩けば、外国人の姿を目にすることが多くなりました。

また、外国人と入れ替わるだけでなく、機械化によって人の手をほとんど必要としなくなるという話もあります。

実際に米Amazonがドローンによる配送で特許出願中だったり、商品を保管している倉庫を完全自動で機械管理しようとしていたり、ってのは話題になりましたね。

また、「機械化」が直接的に人に取って代わるのではなく、インターネットの利用により、その職業に就業している絶対数が減るというものもあります。

例えば、アメリカなんかでは幾つかの大学が講義を無料で配信しています。

まぁ、英語を聴き取ったり話すことができなかったら殆ど価値はありませんが、日本なんかでも無償のネット講座みたいなのは探せば出てきます。

これが形式として主流になってくるとどうなるのか。

「便利な世の中になったなー」

なんて、よく考えもせず、ただ素敵な世の中が来るのだとほわほわしていたのも束の間、人間の居場所が無くなる、言葉を濁さず言えば、"人間が不要になる世の中"が目前に訪れていたのですね。

もちろん、機械というものが発明されてから、そういった"職業"そのものが消失することは今までにもあったわけですが、現代の急速すぎる技術の発展によって、その速度も増しています。

(ちなみにですが、"知的労働"や"職人"と呼称されているカテゴリに属する職業の何割かも危うかったりします。

詳細はそんな技術の最先端の一つである、Google大先生に「機械化 職業」とでも訊いてみればよろしいかと)



また、それは人に限った話ではなく、「モノ」もそうですね。

モノが売れないと嘆く声は色んな所で上がっています。

例えば「電化製品」。

テレビが売れない、パソコンが売れないだの色々と言われていますが、これはそもそも論として、幾つかのものを省略してしまえる何かが生まれたからでしょうね。

わかりやすい例としてはスマートフォン。

僕の手元にもありますが、これ一つで何が出来ますかね?

インターネットに接続でき、音楽も聴けて、映画も視れて、電話もメールも出来て、写真も撮れて・・・。

加えて、機能的に制限があったり、使い勝手は悪かったりもしますが、読書したり、絵を描いたり、プログラミングすることも出来ます。

つまるところ、質にこだわらなければ

スマートフォン=音楽プレイヤー+CD+DVDプレイヤー+DVD+パソコン+カメラ+電話+書籍+ ...etc

となるわけです。

そう考えると、モノが不要になるのも必然ですよね。

いくら自分にとって必要としているものだとしても、インテリアとしてであったり、それら自体を好む場合を除けば、好き好んで部屋を占領するものなんて大抵の人は持ちたがらないでしょう。



こうして、機械による"代替"が人も物も不要なものとして、人間にとって肩身の狭い世界が訪れようとしているわけです。

"人が想像しうるものは実現できる"

誰が言った言葉かは忘れましたが、あながち嘘ではないのかもしれませんね。

だとすると、期待を持って想定しうるものより遥かに多くの職業が機械にとって替わられるのでしょう。

僕やあなたが観ているものが異なるように、世界中の化け物と形容されるレベルの天才たちや、人生の殆どをそのことに費やして来た専門家たちにはもっと厳しい世界が観えているかもしれません。

そして、それはもしかすると僕らが死ぬ前に、ではなく、10年もしないうちにそうなると言われても不思議ではありません。

では、その時に何が起こるのか?

それは価値観の大きな変化です。

現在の社会で価値あるものがその価値を失い、別のものが価値を持つ。

現在、我々の社会は「貨幣経済」で回っています。

食事や車などの実際に形を持つものであれ、サービス業などの形を持たないモノであれ、何らかの基準により価値を定め、それと交換する形で貨幣を支払っているわけですが、高度な技術の発展によりそれが変化してきているのです。

単純な労働力は機械化が進み、そうして出来上がったものは今までよりも遥かに安く提供される。

知的労働者としての人材が必要なところはネットワーク化によりその数を減らし、その減ったパイを国内だけでなく、海外からも優秀な人材が流入し、食い合う。

もちろん、突然起こるわけではなく、これまでもそういう流れはありましたが、これからさらに加速していきます。

その中で食べていくために何をすべきか?

これには2つの道があると言われています。

一つは「食い合いに勝てるように人の何倍もの努力」をすること。

もう一つは、「食い合いに参加せず、新たな価値を生み出し提案する」ことです。

どちらを選ぶかは個人によりますが、いずれにしろ、今よりももっと自分の価値を高めていくことが求められる社会が来ています。

悲観的に物事を否定する前に。

世界に絶望する前に。

目前に迫った社会で必要な価値とは何か?

そもそも「価値」とは何なのか?

我々が生きていくために、その素朴で本質的な問と改めて向き合うことが必要とされているのです。