こんにちは。
糸凪邑です。
そこそこ筆が早くなりました。
最近はアクセサリを作るより文字を綴ることの方が楽しいので、もう少し早く記事を書けるようになるのではなかろうか、と希望的観測を持って考えていたりいなかったり。
まぁ、どうでもいい話はそれくらいにして。
今回は
"意思の伝達"
つまるところ、コミュニケーションについて書いていこうかと思います。
とはいえ、所謂コミュニケーション術ではないので、即座に役に立つ訳ではありませんが、何事も原理を理解することが実用への第一歩でしょう。
書いてあることは至って当たり前のことですが、当たり前のことを改めて考えてみることは有意義であると思うので、この機会にお試しいただければ、と。
これを読んでいるあなたが日本人であるか、少なくとも日本語を読めると仮定しまして。
我々は日本という国に住んでいて、日本語を話しています。
グローバル化がどうのこうのと言われていますが、おそらくあなたは周りの人と日本語でコミュニケーションをとっていることでしょう。
では、ここで疑問を1つ。
"我々は日本語を話している家族や友人を始めとした周囲の人達と完璧に意思の疎通が出来ているのだろうか"
自分が何か頼み事をし、それを了承してもらったのにも関わらず、期待した結果が返ってこないことがありはしないだろうか。
「そんなことないよ。自分の言葉はちゃんと伝わってるよ。ツーカーだよ」
と自信を持って断言出来るのであれば問題なし。
この記事を読む時間がもったいないので、自分の趣味にでも目を向けましょう。
でも、おそらくは「出来ていない」と答えると思うんですよ。
勝手な憶測ですが、そうでなければ、そもそもこんなところに来ていないでしょうから。
では、何故うまく意思の疎通が出来ないのか?
何故、自分の言葉が正しく伝わらなかったり、相手の言葉を理解できなかったりするのか?
結論から先に言うと、
"全ての人が各々の世界を持っていて、そこから物事を観たり、言葉を形にしているから"
です。
ありふれた言葉で言えば「主観」ですかね。
何かに触れるということは、五感(人によっては六感)が感じとった情報を、自分の世界を通して解釈するということです。
そして、その「自分の世界」というのは経験や知識等の蓄積によって構成されている「フィルター」のようなものです。
つまり、上の一文は
"人は自分の経験や知識というフィルターを通して、自分の外にある対象を認識し、そのフィルターを通すことで自分の中にあるものを他者に伝えることができる"
と言い換えることができます。
内容が少し抽象的なので、ここからは例を使って説明していきましょうか。
そこに「林檎」があります。
いやまぁ、実際は無いと思いますけどね。
とりあえず、自分から見えるところに林檎がある様を想像して下さい。
出来ましたか?
では、「林檎」を知らない人が"それ"を見た場合、何と表現するでしょうか?
そもそもそこに何かあることがわかるのかどうか。
もしかすると風景の一部としか認識しないかもしれない。
何かあるらしいことはわかる可能性はありますが、それが何なのかわからないでしょう。
"この赤くて丸いものはなんだろう?"
と表すことはあれど、「林檎」という言葉には辿り着かない。
そもそも、「赤い」や「丸い」というのも経験や知識によるものですから、純粋に言葉を伴わない疑問なのかもしれません。
目の前にある「それ」を「林檎」と判断するには、判断する経験や知識が必要となる。
経験や知識を持っていなければ、何なのかわからない。
経験や知識を持っていれば、「林檎」が見えてくる。
この経験や知識の総体が「フィルター」であり、これが"フィルターを通して認識する"ということです。
では、あなたが"「林檎」とはどういうものなのか"を言葉として伝えようとする場合。
林檎を想像してくれと頼んだ時、ぼんやりとイメージが浮かべてもらったと思います。
それがあなたにとっての「林檎」です。
そのイメージを元に、それがどんなものか、言葉で他人に伝えようとしてみる。
とすると、自分の中にあるものを言葉にする場合、それぞれの性質に対応する言葉を知っていなければなりませんね。
赤であれば「赤」。
丸であれば「丸」。
甘いのであれば「甘い」。
という風に。
では、それらを知らない場合はどうなるか。
"フィルターを通さなければ、自分の世界にあるものを他者に伝えることができない"というのはこういうことです。
さて、ほんの僅かかもしれませんが、人は自分の世界というフィルターで物事を観たり、それを通して他者に伝えるものなのだ、ということを解っていただけたかと思います。
となると、この疑問に答えるのはそう難しいことではありません。
これだけ個々人の主観で物事を観ているのに、何故「林檎」というものが伝わるのか。
僕の思い描く林檎とあなたの思い描く林檎はおそらく細かいところが異なっているはずなのに。
それは僕の世界とあなたの世界に共通した部分があるからであり、
"意思の伝達はこの共通した部分でのみ行うことができる"
のです。
上の例の場合、共通のものは「日本語の林檎という単語」が該当します。
僕とあなたは「林檎」という言葉を知っています。
そして、それぞれの頭の中で「林檎」という言葉から連想するぼんやりとしたイメージがあり、そのイメージが"偶然"にも多少の一致をみせているからこそコミュニケーションができるわけです。
だから、「赤」という色を「林檎の色」という風に説明する場合、緑の林檎以外の林檎を知らず、「林檎」=「丸っこくて"緑色"の果物」という風に頭の中で結びつけている人には説明できません。
その人にとって林檎は緑色のものであり、赤色ではないからですね。
だから、赤い林檎が欲しくて、「林檎を買ってきてくれ」と頼んだとしても、その受け手が「赤い林檎」を知らなければ、「青林檎」を買ってくるかもしれない。
「林檎といえば赤林檎」という共通認識がある場合はコミュニケーションが正しく成立しますが、その認識が無いのであれば、わざわざ「赤い林檎を買ってきてくれ」と言ったり、場合によっては「林檎には赤いものがある」ということから説明しなければならないのです。
ここからわかるのは、日本語や英語などの言語はコミュニケーションを図る形式の一つに過ぎないということです。
言語が共通であっても、経験や知識を全く違えているのであれば、意思の伝達が思うようにいかない。
それを引き起こすものは幾つかあるのですが、主なものとしては"文化"が該当します。
ご存知かもしれませんが、例えば「虹」。
虹にはいくつの色がありますか?
7色ですか?
そうですね。
"日本では"7色だと言われています。
しかし、他の国は違います。
適当に検索してもらえればわかりますが、5色だったり6色だったり、そもそも7色前後という幅におさまらず、2色とかいう、我々からすると冗談のような国もあります。
これは文化の違いによるものだと言われています。
言葉を学び、共通の言語でコミュニケーションを図ろうとしたところで、このような文化的な背景がそれを阻害しうるのは念頭に置いておかなければなりません。
大まかな説明でしたが、我々の会話が成立したり、しなかったりする理由はこういうところにあるのです。
最後に、言葉がどういう風に伝わるのか、「伝わる」とはそもそもどういうことなのか、もう少し掘り下げて考えてみましょう。
さっきの林檎のお話の補足といったところですかね。
人は何か自分の知っている言葉を聞いた時、それと結びつくものを自分の中の知識や経験から探します。
だから、当たり前ですが、そこに無いものを見つけることは出来ません。
突然、
「Caleb Landry Jonesって格好いいですよね?」
なんて訊いても、それが何かわからなければ、想起されるものは無いわけです。
ちなみにCaleb Landry Jonesっていうのはアメリカの俳優で、僕の最近のイチオシだったりします。笑
声や雰囲気が非常に独特で、好き嫌いがわかれると思いますが、好きな人にはたまらない俳優ですので、気になったら調べてみて下さい。
僕のおすすめの作品は「ANTIVIRAL-アンチヴァイラル」という映画です。
少しばかりグロテスクですが、とても綺麗な色彩の作品ですので、その点でも見る価値はありますよ。
...と、余談はこれくらいにして。
つまるところ、いくら話し手の中に明確なイメージがあったところで、それを知らない人に同じものを直接"言葉"で伝えることは非常に困難である、と。
これらのことからわかるのは、
"言葉による伝達というのは、話し手のイメージを直接伝える行為なのではなく、話し手の言葉によって、受け手の内部にある、その言葉と結びついたイメージを、相手の中から相手の思考に浮上させる行為である"
ということです。
あなたが「Caleb Landry Jones」という俳優を知らなくて、名前も今初めて聞いたとします。
その状態で、僕に
「Careb Landry Jonesを知っていますか?」
というと、あなたの中にはCaleb Landry Jonesの映像は何一つ無いのに、僕の中にはCareb Landry Jonesの映像が再生されます。
僕の世界にはCaleb Landry Jonesが知識や経験として存在しているからです。
自分の中にあるイメージを伝えるのであれば、こうはなりませんよね?
無いものはそもそも伝わらないのですから。
"言葉が自分のイメージを「伝えるものではない」"というのはつまりこういうことです。
・人は同じ世界にいて、同じものを観ているようであっても、各々の経験や知識によって観えているものは異なる
・言葉が伝わるのは、話し手と受け手の世界に共通する部分で話しているから
・言葉が伝わらないのは、話し手と受け手に共通する部分で話していないから
・言葉はイメージを「伝える」ものではなく、相手の中にあるイメージを相手の中に「浮上させる」ものである
とりあえず、今回の内容としてはこれくらいで。
細かいところを書こうと思えばいくらでもあるので、気が向いたらそのうちどこかで書きます。
今回お話ししたことを理解してもらえれば、少なくとも会話が上手く成り立たなくて苛ついたりすることは減るんじゃないかなーと。
最後に本日の記事を簡単なイメージにしたものを。
適当なアプリで落書き程度に描いてみました。
記憶に残るかどうかはわかりませんが、まじまじと見つめて頭の片隅に置いておいて下さい。
もし、こやつらが可愛く見えてきたら眼科か精神科に行きましょう。
行かないのであれば、あなたは僕と世界を共通する同胞です。
ゆあうぇるかむ。
糸凪邑です。
そこそこ筆が早くなりました。
最近はアクセサリを作るより文字を綴ることの方が楽しいので、もう少し早く記事を書けるようになるのではなかろうか、と希望的観測を持って考えていたりいなかったり。
まぁ、どうでもいい話はそれくらいにして。
今回は
"意思の伝達"
つまるところ、コミュニケーションについて書いていこうかと思います。
とはいえ、所謂コミュニケーション術ではないので、即座に役に立つ訳ではありませんが、何事も原理を理解することが実用への第一歩でしょう。
書いてあることは至って当たり前のことですが、当たり前のことを改めて考えてみることは有意義であると思うので、この機会にお試しいただければ、と。
我々はなぜ会話が出来るのか?そして何故会話が出来ないのか?
これを読んでいるあなたが日本人であるか、少なくとも日本語を読めると仮定しまして。
我々は日本という国に住んでいて、日本語を話しています。
グローバル化がどうのこうのと言われていますが、おそらくあなたは周りの人と日本語でコミュニケーションをとっていることでしょう。
では、ここで疑問を1つ。
"我々は日本語を話している家族や友人を始めとした周囲の人達と完璧に意思の疎通が出来ているのだろうか"
自分が何か頼み事をし、それを了承してもらったのにも関わらず、期待した結果が返ってこないことがありはしないだろうか。
「そんなことないよ。自分の言葉はちゃんと伝わってるよ。ツーカーだよ」
と自信を持って断言出来るのであれば問題なし。
この記事を読む時間がもったいないので、自分の趣味にでも目を向けましょう。
でも、おそらくは「出来ていない」と答えると思うんですよ。
勝手な憶測ですが、そうでなければ、そもそもこんなところに来ていないでしょうから。
では、何故うまく意思の疎通が出来ないのか?
何故、自分の言葉が正しく伝わらなかったり、相手の言葉を理解できなかったりするのか?
結論から先に言うと、
"全ての人が各々の世界を持っていて、そこから物事を観たり、言葉を形にしているから"
です。
ありふれた言葉で言えば「主観」ですかね。
何かに触れるということは、五感(人によっては六感)が感じとった情報を、自分の世界を通して解釈するということです。
そして、その「自分の世界」というのは経験や知識等の蓄積によって構成されている「フィルター」のようなものです。
つまり、上の一文は
"人は自分の経験や知識というフィルターを通して、自分の外にある対象を認識し、そのフィルターを通すことで自分の中にあるものを他者に伝えることができる"
と言い換えることができます。
内容が少し抽象的なので、ここからは例を使って説明していきましょうか。
そこに「林檎」があります。
いやまぁ、実際は無いと思いますけどね。
とりあえず、自分から見えるところに林檎がある様を想像して下さい。
出来ましたか?
では、「林檎」を知らない人が"それ"を見た場合、何と表現するでしょうか?
そもそもそこに何かあることがわかるのかどうか。
もしかすると風景の一部としか認識しないかもしれない。
何かあるらしいことはわかる可能性はありますが、それが何なのかわからないでしょう。
"この赤くて丸いものはなんだろう?"
と表すことはあれど、「林檎」という言葉には辿り着かない。
そもそも、「赤い」や「丸い」というのも経験や知識によるものですから、純粋に言葉を伴わない疑問なのかもしれません。
目の前にある「それ」を「林檎」と判断するには、判断する経験や知識が必要となる。
経験や知識を持っていなければ、何なのかわからない。
経験や知識を持っていれば、「林檎」が見えてくる。
この経験や知識の総体が「フィルター」であり、これが"フィルターを通して認識する"ということです。
では、あなたが"「林檎」とはどういうものなのか"を言葉として伝えようとする場合。
林檎を想像してくれと頼んだ時、ぼんやりとイメージが浮かべてもらったと思います。
それがあなたにとっての「林檎」です。
そのイメージを元に、それがどんなものか、言葉で他人に伝えようとしてみる。
とすると、自分の中にあるものを言葉にする場合、それぞれの性質に対応する言葉を知っていなければなりませんね。
赤であれば「赤」。
丸であれば「丸」。
甘いのであれば「甘い」。
という風に。
では、それらを知らない場合はどうなるか。
"フィルターを通さなければ、自分の世界にあるものを他者に伝えることができない"というのはこういうことです。
さて、ほんの僅かかもしれませんが、人は自分の世界というフィルターで物事を観たり、それを通して他者に伝えるものなのだ、ということを解っていただけたかと思います。
となると、この疑問に答えるのはそう難しいことではありません。
これだけ個々人の主観で物事を観ているのに、何故「林檎」というものが伝わるのか。
僕の思い描く林檎とあなたの思い描く林檎はおそらく細かいところが異なっているはずなのに。
それは僕の世界とあなたの世界に共通した部分があるからであり、
"意思の伝達はこの共通した部分でのみ行うことができる"
のです。
上の例の場合、共通のものは「日本語の林檎という単語」が該当します。
僕とあなたは「林檎」という言葉を知っています。
そして、それぞれの頭の中で「林檎」という言葉から連想するぼんやりとしたイメージがあり、そのイメージが"偶然"にも多少の一致をみせているからこそコミュニケーションができるわけです。
だから、「赤」という色を「林檎の色」という風に説明する場合、緑の林檎以外の林檎を知らず、「林檎」=「丸っこくて"緑色"の果物」という風に頭の中で結びつけている人には説明できません。
その人にとって林檎は緑色のものであり、赤色ではないからですね。
だから、赤い林檎が欲しくて、「林檎を買ってきてくれ」と頼んだとしても、その受け手が「赤い林檎」を知らなければ、「青林檎」を買ってくるかもしれない。
「林檎といえば赤林檎」という共通認識がある場合はコミュニケーションが正しく成立しますが、その認識が無いのであれば、わざわざ「赤い林檎を買ってきてくれ」と言ったり、場合によっては「林檎には赤いものがある」ということから説明しなければならないのです。
ここからわかるのは、日本語や英語などの言語はコミュニケーションを図る形式の一つに過ぎないということです。
言語が共通であっても、経験や知識を全く違えているのであれば、意思の伝達が思うようにいかない。
それを引き起こすものは幾つかあるのですが、主なものとしては"文化"が該当します。
ご存知かもしれませんが、例えば「虹」。
虹にはいくつの色がありますか?
7色ですか?
そうですね。
"日本では"7色だと言われています。
しかし、他の国は違います。
適当に検索してもらえればわかりますが、5色だったり6色だったり、そもそも7色前後という幅におさまらず、2色とかいう、我々からすると冗談のような国もあります。
これは文化の違いによるものだと言われています。
言葉を学び、共通の言語でコミュニケーションを図ろうとしたところで、このような文化的な背景がそれを阻害しうるのは念頭に置いておかなければなりません。
大まかな説明でしたが、我々の会話が成立したり、しなかったりする理由はこういうところにあるのです。
最後に、言葉がどういう風に伝わるのか、「伝わる」とはそもそもどういうことなのか、もう少し掘り下げて考えてみましょう。
さっきの林檎のお話の補足といったところですかね。
人は何か自分の知っている言葉を聞いた時、それと結びつくものを自分の中の知識や経験から探します。
だから、当たり前ですが、そこに無いものを見つけることは出来ません。
突然、
「Caleb Landry Jonesって格好いいですよね?」
なんて訊いても、それが何かわからなければ、想起されるものは無いわけです。
ちなみにCaleb Landry Jonesっていうのはアメリカの俳優で、僕の最近のイチオシだったりします。笑
声や雰囲気が非常に独特で、好き嫌いがわかれると思いますが、好きな人にはたまらない俳優ですので、気になったら調べてみて下さい。
僕のおすすめの作品は「ANTIVIRAL-アンチヴァイラル」という映画です。
少しばかりグロテスクですが、とても綺麗な色彩の作品ですので、その点でも見る価値はありますよ。
...と、余談はこれくらいにして。
つまるところ、いくら話し手の中に明確なイメージがあったところで、それを知らない人に同じものを直接"言葉"で伝えることは非常に困難である、と。
これらのことからわかるのは、
"言葉による伝達というのは、話し手のイメージを直接伝える行為なのではなく、話し手の言葉によって、受け手の内部にある、その言葉と結びついたイメージを、相手の中から相手の思考に浮上させる行為である"
ということです。
あなたが「Caleb Landry Jones」という俳優を知らなくて、名前も今初めて聞いたとします。
その状態で、僕に
「Careb Landry Jonesを知っていますか?」
というと、あなたの中にはCaleb Landry Jonesの映像は何一つ無いのに、僕の中にはCareb Landry Jonesの映像が再生されます。
僕の世界にはCaleb Landry Jonesが知識や経験として存在しているからです。
自分の中にあるイメージを伝えるのであれば、こうはなりませんよね?
無いものはそもそも伝わらないのですから。
"言葉が自分のイメージを「伝えるものではない」"というのはつまりこういうことです。
【今回のまとめ】
・人は同じ世界にいて、同じものを観ているようであっても、各々の経験や知識によって観えているものは異なる
・言葉が伝わるのは、話し手と受け手の世界に共通する部分で話しているから
・言葉が伝わらないのは、話し手と受け手に共通する部分で話していないから
・言葉はイメージを「伝える」ものではなく、相手の中にあるイメージを相手の中に「浮上させる」ものである
とりあえず、今回の内容としてはこれくらいで。
細かいところを書こうと思えばいくらでもあるので、気が向いたらそのうちどこかで書きます。
今回お話ししたことを理解してもらえれば、少なくとも会話が上手く成り立たなくて苛ついたりすることは減るんじゃないかなーと。
最後に本日の記事を簡単なイメージにしたものを。
適当なアプリで落書き程度に描いてみました。
記憶に残るかどうかはわかりませんが、まじまじと見つめて頭の片隅に置いておいて下さい。
もし、こやつらが可愛く見えてきたら眼科か精神科に行きましょう。
行かないのであれば、あなたは僕と世界を共通する同胞です。
ゆあうぇるかむ。